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封印されし魔女、四千年後の世界を歩く  作者: しまえび
書庫都市アルメリア
26/27

第26話:魔女と雨の宿の静かな夜

 南門近くの通りは、夜の帳と共に灯る街灯が、等間隔に淡く滲んでいた。

 光は水の粒を透かし、石畳に揺れる模様を描き、踏みしめる足音を柔らかく包み込んでいく。

 庇を深く張り出した家々が肩を寄せ合い、互いの屋根が繋がって一つの傘を形作るようだった。


(……ここが、司書の言っていた宿ですね)


「雫亭」と刻まれた木の看板は、濡れ艶を帯びて黒い石壁に溶け込んでいる。

 屋根から伸びる銅の樋は、ゆるやかな音を立てながら水盤へと流れを導いていた。

 その小さな水面には灯りが揺れ、波紋が重なっては消えていく。


 扉を押し開けると、外の湿り気をやわらげるような、乾いた木と薬草の香りがふわりと漂った。

 鼻先をかすめるその香りは、雨を避けて辿り着いた安堵を形にしたようだ。


「ようこそ、旅のお方」


 カウンターの向こうに立つ女将は、灰色の髪を後ろで束ねた、穏やかな目元の女性だった。

 名を告げると、彼女は頷き、鍵を手に取る。


「外套や荷物はこちらでお預かりします。魔法乾燥室で朝までに仕上げますから、安心してお休みくださいな」


 奥へ案内されると、整然と並んだ棚や掛け台を、淡い光の膜が覆っていた。

 魔力が空気を循環させ、湿気だけを吸い取っていく。

 布や革を傷めぬよう、温度と湿度が緻密に保たれているのが、指先に触れる空気のやわらかさから伝わった。


(……この街は、本だけでなく、暮らしそのものも雨と共にあるのですね)


 二階の客室は、厚手のカーテンと防湿処理を施した棚、本を読むための小さなランプが備えられていた。

 壁際の魔法式温風器は音もなく温もりを送り、外套に染み込んだ冷気をそっと拭い去る。

 屋根越しに伝わる音は、静かな呼吸のように一定の間隔で室内を満たしていた。


(……静かな夜とは、こういうものを言うのですね)


 階下の共用サロンでは、書庫を利用するために滞在している旅人や学者が、低く談笑していた。

 暖炉の火が穏やかに揺れ、分厚い絨毯が足音を吸い込み、外の気配はただ遠くに漂う。

 それは、音そのものが礼儀をわきまえているような空間だった。


「お疲れでしょう。こちらをどうぞ」


 女将が盆に載せて運んできたのは、香り高いハーブティー。

 湯気の中にはほのかな魔力が溶けており、ひと口含むと張り詰めていた肩の力が自然と解けていく。

 香りは深く、温かさは柔らかく、まるで胸の奥に静かな火を灯すようだった。


(……私の時代にはなかった、雨と共にある静かな夜)


 ランプの光が湯気の向こうでゆらぎ、柔らかな音と溶け合う。

 時間が薄く伸び、過去も未来もない一つの点に自分が漂っているような感覚が訪れた。


 やがてカップを置き、部屋へ戻る。

 外套はすでに完全に乾き、布地にはわずかな温もりが残っていた。

 その温もりを手に感じると、旅の疲れまでもが静かにほどけていく。


 窓辺に椅子を寄せ、カーテンを少し開ける。

 灯りを受けた水の筋がガラスをゆるやかに伝い、その向こうで黒い屋根を水が滑り落ちていく。

 雨樋を抜ける水音が夜気の中で澄んだ響きを立て、まるで誰かが遠くで物語を語っているようだった。


(……この街の人々は、生まれたときからこの音と共にあるのですね)


 私の時代、雨は作物を枯らし、旅を阻む障害でしかなかった。

 けれど、この街では雨は守りの象徴であり、暮らしに寄り添うもの。

 防ぐのではなく受け入れることで、雨は友となり、時間と記憶を守るものへと変わっていた。


 ふと、書庫で見た古い地図の一部が脳裏に浮かぶ。

 そこに刻まれていた都市名──かつての記憶と重なる響き。

 直接の答えではないが、旅の途中でこうした断片を拾えることが、妙に嬉しかった。


 ベッドに腰を下ろし、灯りをひとつだけ残して本を開く。

 外の世界は柔らかな音に満たされ、室内はその残響だけが漂っている。

 ページをめくる指先の音が雨に溶け、言葉と音がひとつになってゆく。


(こうして雨と過ごす夜も……悪くありませんね)


 瞼が重くなり、文字が揺れて滲む。灯りを消すと、闇の中で音だけが残った。

 それは、遠い昔の夢へと誘う子守唄のようだった。


 

 * * *


 

 翌朝も空は灰色に覆われていたが、光はやわらかだった。

 屋根を流れる水はきらきらと光り、街は変わらぬ調子で息づいている。

 食堂では温かいパンと湯気立つスープが用意され、女将が笑みと共にハーブ茶を置いていった。

 その香りを吸い込みながら、雨の街で迎える初めての朝を静かに味わう。


(……旅の途中で立ち寄るには、惜しいほど居心地のいい場所ですね)


 まだ濡れた石畳が続く街へ、ゆっくりと歩き出した。

 空気は冷たく、雨の気配は遠くまで染み渡っている。


 ふと、宿で耳にした旅人たちの話がよみがえる。

 この先、山裾に湯気を立ち上らせる温泉の街があるという。

 泉は古くから地熱と魔法で温められ、旅人の疲れをほぐすことで有名らしい。


(……雨の街の静けさの次は、温もりの中で過ごすのも悪くありませんね)


 その思いを胸に、私は再び旅路へと足を向けた。

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