第25話:魔女と書庫都市
ヴァルカントを発って数日、背後に遠ざかる歯車の音は、もう耳には届かなくなっていた。
代わりに、低くうねる風の音が耳を満たす。西へ進むほど、空は重く垂れ込め、灰色の雲が地平まで連なっている。
やがて道の両脇に並ぶ樹々の葉先に、細かな水滴が降り始めた。
それは雨というより、空気そのものが水を孕んでいるような、淡く冷たい感触だった。
街道沿いの農家の屋根は深く庇を張り出し、窓辺には雨除けの布が常に掛けられている。
(……噂通り、この辺りは天雲が絶えないのですね)
アルメリア──雨の書庫都市。
古くから周辺一帯は、地形と風向きの関係で雲が滞りやすく、季節を問わず降雨が続く土地だと聞いていた。
晴れ間は一年に数日しか訪れず、人々は雨と共に暮らし、雨の下で都市を築き、雨の中で歴史を記してきた。
坂道を下りきった先で、霧を帯びた川が視界に広がる。
その向こう、灰色の帳の中から、尖塔と屋根を幾重にも重ねた街並みが姿を現した。
建物の外壁は黒い石で覆われ、表面を伝う水滴が雨脚の強弱に合わせて無数の筋を描いている。
足元の石畳は光を鈍く反射し、通りを行き交う人々は皆、厚手の外套や防水布を肩から羽織っていた。
路地の上には木造の回廊や渡り廊が張り巡らされ、家々の庇が互いに重なり合って、雨を受け流している。
どこからか、雨水の滴る音と、板屋根を打つ柔らかな響きが交互に混じり合っていた。
(……まるで、街そのものが大きな屋根の下にあるようです)
私は外套の襟を軽く合わせ、ゆっくりと石段を降りた。
雨粒は細かく、しかし途切れることなく降り注ぎ、街の輪郭を淡く滲ませている。
それは、どこか書物のインクが水に溶け、静かに広がっていく光景にも似ていた。
街に足を踏み入れると、まず耳に届くのは水の音だった。
路地の端を流れる細い水路、建物の軒先から落ちる雫、雨樋を走る水が木桶に落ちる音──。
それらが幾重にも重なり、低く柔らかな旋律を形作っている。
通り沿いには紙や羊皮紙を扱う店が並び、軒先には防水用の布幕が下げられている。
店先のショーケースには、美しい装丁の本や、精緻な写本が並んでいた。
よく見れば、その表面に淡く光る魔法紋が浮かんでいる。
(……これは、防湿と防腐の符ですか)
普通なら、これほどの湿気は本にとって致命的だ。
だが、この街では雨を避けるのではなく、雨と共に生きるための術を磨いてきたのだろう。
紙一枚、革の表紙一つにも、魔法の加護が緻密に施されているのが分かる。
足を止めた私に、帳場の老人が気づき、微笑を向けてきた。
彼は布に包まれた古い本をそっと広げ、磨き上げた金属の栞を挟み込む。
その仕草は、雨粒一つすら寄せつけない精密さだった。
「この湿り気で、これほどの状態を保てるとは……」
私の独り言に、老人は静かに答える。
「雨は敵じゃない。古くから、この街は雨と本を共に守ってきたんです」
通りを抜けると、視界が開けた。
黒い石造りの巨大な建物──大書庫がそびえていた。
幾重にも重なる屋根の下には、魔法加工された無数の雨樋と水受けがあり、流れ落ちる水は一滴も無駄にせず導かれていく。
外壁の石には、魔力を含んだ苔がびっしりと生え、湿気を吸収しては淡く光を放っていた。
(……雨を受け入れ、その恵みを守りに変える街)
広場の中央には水盤があり、その水面は魔法陣で緩やかに波打っていた。
周囲を行き交う人々は、皆、本や書類を胸に抱いている。
どれも防水と防腐の符で覆われ、雨の中でも傷む気配はない。
書庫の正面階段では、人々が外套の水を払ってから中へ入っていく。
その所作は礼拝堂に入る前の祈りのようで、自然と背筋が伸びる。
(……雨に守られた記録、私が知る戦火の街とは、まるで別の姿ですね)
雨の帳に包まれた街、その中心にある黒い書庫。
私はしばらく立ち止まり、その景色と音を静かに胸へ刻みつけた。
* * *
高い書架が並ぶ中央の通路を抜けた先、磨かれた木製のカウンターの向こうに、一人の若い女性が立っていた。
亜麻色の髪を後ろで緩く束ね、白い手袋をはめた指先で、一冊の分厚い本の表紙を布でそっと拭っている。
その仕草は、雨粒を払うよりも慎重で、長年の習慣のように静かだった。
「ようこそ、アルメリア大書庫へ」
澄んだ声が、湿り気を含んだ空気の中で柔らかく響く。
「お探しの分野はございますか?」
「……いえ、ただ、見学をさせていただきたくて」
私がそう答えると、彼女はわずかに微笑み、頷いた。
「でしたら、どうぞご自由に。ただし、一般区画内の一部の書物と古書区画は閲覧のみで持ち出しは禁止です。この環境では、本を守るための規則が多いのです」
彼女はカウンター脇の通路を示し、軽く会釈した。
案内に従って奥へ進むと、書架の並びはさらに密になり、背表紙の革が深い色合いを帯びている。
通路の途中、魔法で湿度を一定に保つ結界が薄く揺らぎ、その内側は外よりもわずかに暖かかった。
棚の一角には、雨に溶けたような淡い色の羊皮紙が並び、その中に──古い地図の写本が一枚、目に留まった。
茶色く変色した紙の端に、見慣れぬ地名が刻まれている。
輪郭はかすれて判読しにくいが、その隣に、かつて聞き覚えのある都市名が小さく添えられていた。
(……これも、私の時代の断片ですね)
かすれた線は、まるで水に溶けかけた記憶のようだった。
そっとページを閉じ、棚に戻す。
やがて、時を忘れるようにいくつもの書架を見て回っているうちに、外の光がわずかに落ち、室内のランプが一段明るく感じられた。
私はカウンターへ戻り、司書に声をかける。
「この本をお借りすることはできますか……?」
「申し訳ありません、こちらは一般区画の書物ですが、外への持ち出しはできないものとなります」
柔らかな口調だが、その声には守り続けてきた誇りが滲んでいた。
「旅のお方ですよね? もし長く読まれるなら、街の宿に滞在されるのがおすすめですよ。特に南門近くの宿は、屋根に特別な加工がしてあって、雨音が柔らかく響くんです。夜はとても落ち着きますよ」
そう言って微笑む彼女の瞳は、雨粒を映したように澄んでいた。
私は軽く礼を述べ、再び静かな書架の間を通り抜ける。
外へ出ると、濡れた石畳に灯りが滲み、雨粒が途切れなく降り続いていた。
街の奥、南門の方向にある、一際大きな宿へ視線を向ける。
(……あの宿なら、この街の夜も静かに感じられるでしょうね)
南門方向から微かに灯りや人の声が漏れている。
私はフードを整え、雨の中を歩き出した。




