第24話:魔女と時計修理と歯車
朝のヴァルカントは、柔らかな光の中で目覚める。
陽に照らされた石造りの家々の間を、細い路地がくねりながら伸び、その合間を縫うように朝市の通りが広がっていた。
通りの両側には、金属製の天秤や歯車仕掛けの計量器を並べた屋台、鉄製の棚に機械式の置物を飾る店が立ち並ぶ。
屋台の奥では、秤の皿が動くたびにカチ、カチと乾いた音が響き、台車の車輪が石畳の上でゴロゴロと低く唸る。
それらが混ざり合って、この街独特の朝の音楽を形作っていた。
魔法都市では、こうした計測や運搬は魔力で行われることが多い。
けれどここでは、歯車や軸、滑車や重り──そういった物理的な仕組みが、生活の隅々まで息づいている。
(……この街では、魔法よりも手に触れられる技術こそが、人々の信頼を得ているのですね)
通りを進むと、油で黒光りする金属部品を並べた露店があった。
店主は無骨な前掛け姿の中年男で、金槌を打つたびにカンと高い音が弾ける。
その横では、少年が小さな歯車を試しに噛み合わせ、上手く回転するか確かめていた。
焼き立てのパン屋からは香ばしい匂いが漂い、パン切り用の歯車式カッターがシャリと音を立てて動く。
どこを見ても、何かが回り、動き、刻み、鳴っている。
それらは誰に命じられたわけでもなく、ただ人々の生活の一部として、今日も淡々と時を刻んでいた。
(魔法の光も美しいですが……こうして歯車の音に包まれるのも、悪くありませんね)
私は歩みを緩め、通りの端から端まで、その音色を静かに聞きながら進んだ。
大通りから一本外れた路地は、先ほどまでの喧噪が嘘のように静かだった。
石壁の間に伸びる細い道の奥からコチ、コチと規則正しい音が微かに聞こえる。
その音に導かれるように進むと、小さな木製の看板が目に入った。
《時計修理 リオネル》
看板の下には、磨き込まれた真鍮の懐中時計がひとつ吊るされている。
扉を押し開けると、店内は外の明るさから一転して、油と金属と木の匂いが入り混じる、落ち着いた空気に包まれていた。
「いらっしゃいませ」
奥の作業台に座っていたのは、白髪交じりの壮年の男だった。
深く刻まれた皺が、そのまま時の流れを映し取ったようで、手元の動きは年齢を感じさせぬほど確かで、静かだった。
机の上には大小さまざまな歯車とバネが並び、半分ほど分解された置き時計の内部が露わになっている。
「観光の方ですかな」
「ええ、通りを歩いていて、この音に惹かれました」
私がそう告げると、男は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「音、ですか。ほとんどの客は見た目か値段から入りますが……音を気にする方は少ない」
男はピンセットで小さなネジを摘み、歯車の軸にそっと落とす。
その動きが終わるたび、カチと軽い音が鳴った。
私は作業台の端に置かれた古びた振り子時計に目をやる。
外の街に響いていた多くの機械音とは違い、この音は柔らかく、穏やかに胸の奥へと沁みてくる。
(……同じ動き続けるものでも、これほど表情が違うのですね)
ふと、壁際の棚に並ぶ時計の中に、妙に古めかしい装飾のものがあるのに気付く。
私の時代に作られた時計に似た意匠──ただし、表面の金細工は煤け、針は止まっていた。
「これは?」
「ああ、それはもう動かん。私の師匠が若い頃に修理を試みたが……部品も図面も、もう残っていない。今では、ただの時を止めた飾りですな」
男は振り返らずに答え、次の歯車へと指先を移す。
声には諦めと、わずかな敬意が入り混じっていた。
「時を止めた飾り……」
(魔法では、止まった時間を動かすこともできる。しかし──)
この街では、歯車と機械がすべてだ。
私がこの時計を動かすことは容易い。けれど、それをしてしまえば、この職人の積み上げた技と誇りを踏みにじることになる。
「この街の方々は……本当に魔法を使わないのですね」
問いかけると、男はわずかに肩をすくめた。
「そういう風習です。魔法は便利でしょうが、我々には目で見て、手で触れて、耳で聞けるもののほうが信じられる。歯車は嘘をつかないんです」
その言葉に、私は小さく頷いた。
(……この街は、時の刻み方まで、人の手で守ってきたのですね)
男は最後の部品を組み込み、裏蓋を閉める。
机の上の置き時計が、ゆっくりと、しかし確かな律動で時を刻み始めた。
「お見事ですね」
私の言葉に、男は短く笑い、時計を棚へ戻した。
外の通りに戻ると、先ほどよりも歯車の音が澄んで聞こえる。
それは、職人の手が時を繋ぎ直した余韻のように感じられた。
* * *
外に出ると、夕刻の冷たい空気が頬をかすめた。その中で、歯車の音は先ほどよりも澄んで聞こえる。
街へ戻る道は、既に淡い橙色の影に包まれていた。
石畳を踏みしめるたび、靴底に微かな振動が伝わってくる。それは、街を支える数え切れないほどの歯車の回転が、地面を通して響いているのだと分かる。
昼間に歩いた大通りは、夕刻でもなお賑やかだった。屋台からは香ばしい焼き菓子の匂いが漂い、店先に並ぶ機械仕掛けの玩具が、規則正しい動きで客を誘っている。
けれど、あの時計店の奥で感じた静けさと、職人の低い声は、不思議と耳の奥に残ったままだった。
(……魔法がなくても、これほどの精度で世界を作り上げるのですね)
立ち止まり、振り返る。遠く、歯車塔の上部が夕陽を受けて金色に輝いている。
その景色は、昼間とは違い、どこかしっとりとした温かさを帯びていた。
私は軽く息を吐き、再び足を進める。
今日、手にしたものは決して形のあるものではない。それでも、この街の空気と人々の営みを感じ取れたことは、確かに心の中で何かを満たしていた。
歯車の低い唸りが、夜の始まりを告げるように響く。
私はその音に耳を澄ませながら、静かに宿の扉を開けた。




