第21話:魔女と立入注意区域
朝のレクナートは、湖面から吹き上がる風に揺れ、陽光を受けた白い外壁がきらめいていた。
都市の縁に張り出す大きなテラスには、色鮮やかな花壇と噴水があり、観光客たちは湖を背景に記念写真を撮っている。
石畳の道沿いには喫茶店や土産屋が軒を連ね、ガラスの工芸品や数々のこの土地ならではの菓子が、陽の光を浴びて輝いていた。
私も人々の流れに紛れ、広場や展望台を見て回った。
賑やかな声と香ばしい甘い匂いが、旅人の足を自然と緩める。
けれど、その華やかさの中で、私の意識はどうしても一カ所に向かってしまう。
昨日、街の外縁を歩いていた時に見かけた、古びた鉄柵と「立入注意」の札。
柵の向こうには、下層へと伸びる長い階段があった。
日中でも薄暗く、そこだけ風の流れが冷たく感じられたのを覚えている。
不思議なことに、その場所は地元の案内板にも観光マップにも載っていない。
まるで初めから存在しないかのように、印刷された地図のその部分はぽっかりと空白になっていた。
(……偶然にしては、少し不自然ですね)
観光客は誰一人としてその階段に近づかない。
むしろ、周囲の通りの賑わいが、その一角を避けて流れているように見えた。
広場の端にある鉄工屋台で足を止めた。
磨き込まれた歯車や真鍮のパーツが、陽の光を反射してきらめいている。
店番をしているのは、作業着姿の年配の男。腕には煤の跡が残り、指先は油に染まっていた。
「観光かい、お嬢さん」
「ええ。湖も街も、とてもきれいですね」
「そりゃそうだ。ここは今や観光都市だからな。湖上の風景と空の散歩道、あれ目当てに年中人が来る」
男は、並んだ部品を布で拭きながら続けた。
「見たかい? あの中央広場の噴水、あれはうちの工房の仕事だ。水を押し上げる魔力ポンプも、俺らが作ったんだぜ」
「まぁ……あれは見事でした」
「ふふん、だろう? 観光客には洒落た景色を楽しんでもらって、その裏で俺らがせっせと街を動かしてるってわけだ」
そんな調子で、湖上都市の自慢話が続く。浮遊装置の大まかな仕組みや、部品を作る難しさ、年に一度の部品総入れ替えの大仕事のことまで、男は得意げに語った。
会話の流れの中で、ふと私は尋ねる。
「そういえば……広場の外れにある階段、あれはどこへ続いているんですか?」
布を動かしていた男の手が、ぴたりと止まった。
一拍置いて、低く短く答える。
「……あれは整備用の通路さ。観光客が行く場所じゃない」
表情は変わらないが、声の奥に妙な固さがあった。
それ以上は語らず、男は話題を浮遊装置の塗装の話に戻してしまう。
私は軽く会釈して屋台を離れた。
昼近くなり、港近くの小さな喫茶店へ足を運んだ。
通りに面したガラス扉を開けると、ベルが澄んだ音を立て、甘い焼き菓子の香りが鼻をくすぐる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、明るい声の若い女性店員が微笑んだ。
私は窓際の席に腰を下ろし、紅茶と名物だという空のマドレーヌを注文する。
ふっくらと盛られたクリームの上には、小さな飴細工の羽根が飾られていた。
「この飴、可愛いですね」
「ありがとうございます。浮遊都市に来た記念になりますから。皆さん写真を撮って帰られますよ」
話しながら、店員はカップに紅茶を注ぎ足してくれる。
湖面を渡る風の話、観光客で賑わう季節の話、空中庭園の花が咲きそろう時期の話……。
穏やかで、他愛もないやり取りが続いた。
会話が途切れたタイミングで、ふと広場の奥にある例の階段について尋ねてみる。
「……あそこ、何の通路なんでしょう」
私は何気ない口調で問いかけた。
店員の手が一瞬だけ止まった。
笑顔はそのままだが、視線がわずかに逸れる。
「そうですね……私たちもあまりわかっていないんですよ。それよりお客様――」
それ以上は語らず、すぐに話題を港祭りの屋台のことへと移す。
こちらも深追いせずに頷くが、さっき広場で会った整備士の男の反応が脳裏に浮かぶ。
二人とも、口を閉ざした理由は言わない。
けれど、あの階段を問うた瞬間だけ、空気が変わるのを確かに感じた。
(……やはり、あそこには何かある)
胸の奥で、好奇心がまたひとつ膨らんだ。
* * *
夕暮れ、再び広場の外れへ足を運ぶ。
通りは観光客で賑わっているが、例の階段だけは相変わらず人の気配が薄い。
……いや、今日は違った。
柵の向こう側で、つなぎ姿の整備士らしい男たちが三人ほど出入りしていた。
肩に工具箱をぶら下げ、慣れた足取りで階段を降りていく。
誰も観光客を気に留める様子はない。
(……これは、好機ですね)
胸の中でひとりごちる。
正規の許可を取るのは面倒だし、いま目の前に入れるタイミングがある。
軽く指先を弾くと、空気がわずかに揺らめいた。
「──仮面幻装」
ささやくように呪文を唱える。
光が肌をなぞり、着ていた服が瞬きの間につなぎ服へと変わる。
胸元には見覚えのある整備士ギルドの小さな紋章、腰には工具袋。
鏡がなくても、十分それっぽいと分かる仕上がりだ。
ついでに、手に持っていた旅行鞄を工具箱に見えるよう幻影をかける。
これで遠目には完全に作業員だ。
(よし、問題なしですね)
階段の入り口に向かって歩くと、ちょうど工具箱を担いだ初老の整備士が上がってきた。
視線が一瞬こちらに向くが、相手は軽く会釈するだけで素通りしていく。
どうやら、格好さえ整えば疑われることはないらしい。
私は足音を合わせるようにして柵をくぐり、階段を降り始めた。
夕陽が背後で傾き、空の色が金から群青へと変わっていく。
(さて、何が待っているのでしょう)
胸の奥で、好奇心が静かに、しかし確実に膨らんでいく。
それは観光客としての興味ではなく、魔法師として、この街の奥に隠されたものを見たいという衝動だった。
段を降りるごとに、遠くから機械の低い唸りが聞こえ始める。
街の表通りでは決して感じられない、重く湿った空気。
その奥に、まだ見ぬ何かが静かに息づいている──そんな気がした。
私はそっと息を整え、歩みを進める。
今はただ、階段の先を確かめるために。




