第20話:魔女と浮遊都市
湖畔の港町から、私は定期飛行船に乗った。
目指す先は、浮遊都市レクナート。
かつて、魔法戦争の炎から逃れるため、地上を離れた人々によって築かれた空の街だと聞く。
この街の名は、以前から旅先で何度も耳にしていた。
観光案内の冊子にも、宿の談話室で耳にした噂話にも、「空の楽園」や「天空のリゾート」という派手な言葉と共に、その名は躍っていた。
もっとも、戦争の避難先だったという由来は、観光用の小話の一つとして語られる程度だ。
私は、出発前に港町の古書店で手に入れた地方誌に、その断片的な記述を見つけていた。
古びた写真と共に、「地上の混乱を逃れ、魔法の力で浮上した理想郷」と短く記されていたが、詳細は載っていなかった。
(……私の時代よりも五百年あとのことですね。けれど、その時代の人々もまた、理想を掲げたのでしょうか)
船室の窓から差し込む光が、眼下の湖面に反射して揺れている。
水面は鏡のように空を映し、やがてその先に、青と白の大きな塊が浮かんで見えてきた。
レクナート──。
湖面から高く、まるで雲の上に立つようにして広がるその姿は、遠目にもきらびやかだった。
白い外壁が陽光を受けて輝き、空中庭園の緑がところどころに彩りを添える。
船内の観光客たちは歓声を上げ、窓際に殺到して景色を写真に収めている。
私はその様子を背後に感じながら、静かに視線を都市へ向けた。
この空の街に、かつての理想の名残が、どれほど残っているのだろうか。
* * *
船がゆるやかに接岸し、乗客たちは順にタラップを降りていく。
足を踏み出した先は、磨き上げられた白い石畳。
空気は地上よりも乾いて澄み、ほんのりと花の香りが混じっていた。
港の周囲には色鮮やかな旗や布飾りが揺れ、行き交う人々の服装も華やかだ。観光客らしき顔が多く、その表情には好奇心と期待があふれている。
港の先には、大きな噴水広場があった。
中央から吹き上がる水は魔法で形を変え、鳥や花の姿を象っては消える。
子どもたちが歓声を上げながら走り回り、露店では焼き菓子や冷たい飲み物が売られている。
店先の呼び込みが声を張り上げ、音楽隊が軽やかな旋律を奏でていた。
(……空の楽園、ですか。確かに、そう見えますね)
私は歩きながら、視線を高く上げた。
白壁の建物群は陽を反射してきらめき、広場の背後には緑に包まれた空中庭園が見える。
観光案内板には、この庭園が「平和の象徴」として造られたことが大きく書かれていた。
けれど、そこに至る経緯や、かつての戦争のことには触れられていない。
路地を抜けると、土産物屋や喫茶店が並ぶ通りに出た。
色とりどりの看板には「天空プリン」や「浮遊都市限定ブレンド」など、観光客を引き寄せる文句が踊っている。
店員たちは笑顔で呼び込みをし、通りには甘い香りと焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
ふと、石畳の端に設けられた古びた案内板が目に入った。
色は褪せ、文字もかすれているが、「浮遊計画・創設期」と刻まれている。
そこに描かれた絵は、地上から立ち上がる巨大な魔力浮上機関と、その周囲で避難を待つ人々の姿。
しかし、立ち止まって見入る者はほとんどいない。
通り過ぎる人々は、ただの古い飾りか、無関係な歴史資料くらいにしか思っていないようだった。
(……覚えている人は、もういないのでしょうね)
私は案内板の前で少しのあいだ立ち止まり、指先で古びた金属の縁をなぞった。
そして、再び人波に紛れながら歩き出す。
通りの先、観光客がほとんど足を向けない細い階段があった。
下へと続くその道は、街の華やかさとは別の、薄暗い空気を湛えている。
金属の手すりには「立入注意」とだけ書かれた札が下がっていた。
私は足を止め、視線を落とす。
(……この空気。何か嫌な雰囲気を感じますね)
そう思ったが、今は踏み込む理由もない。
私は視線を引き、踵を返す。
風が頬を撫で、遠くで鐘の音が響いた。
その音に導かれるように、私は賑やかな広場の方へと歩みを戻した。
* * *
港通りを抜けると、開けた広場に出た。
真ん中には大きな噴水があり、透明な水柱が魔法で絶え間なく空へと吹き上がっている。
その水しぶきが陽光を受け、虹色に輝いていた。
広場の周囲には屋台や露店が並び、賑やかな呼び声が飛び交っている。
「浮遊都市名物! 天空プリンはいかが〜!」
「今朝揚がったばかり! 湖魚の燻製、地上じゃ味わえないよ!」
視線の先で、小さなガラス瓶に入った琥珀色の菓子が並んでいた。
瓶の中のプリンは、表面がきらりと光を反射し、上には淡い紫色のソースがかけられている。
売り手が笑顔で差し出した試食品を一口含むと、舌の上でふわりとほどけ、甘みの後にほんのりと花の香りが広がった。
(……この香り、湖畔の花から採った蜜でしょうか)
すぐ隣では、若い職人が湖魚を桜の木片で燻しながら、軽妙に客と会話している。
その背後には、浮遊都市の紋章をあしらった絹織物や、湖面を描いた陶器の皿なども並んでいた。
どれも観光客向けではあるが、手仕事の丁寧さが感じられる。
しばらく広場を歩き、あれこれ眺めていると、港から吹き抜ける風が頬を撫でた。
明るい声と香ばしい匂いが混ざり合い、この街が理想郷として機能していることを改めて思い知らされる。
(……とても賑やかですね)
やがて私は広場を抜け、宿へと向かった。
宿は広場の高台にある二階建ての石造りだった。
玄関を入ると、磨かれた木の床と、天井から吊るされた小さな魔法灯が温かな光を放っている。
受付の女性に名前を告げると、帳簿にさらさらと記入され、部屋の鍵が渡された。
「今日は観光でお越しですか?」
「ええ……まあ、そんなところです」
短いやり取りを交わし、二階の角部屋へ向かう。
部屋の窓からは、港と広場の灯りが遠くに見えた。
先ほどまでの喧噪が嘘のように、ここは静かで、外気もひんやりとしている。
荷を下ろし、カーテンの端を指でつまんで外を眺める。
少し離れた通りの先に、昼間見かけた立入注意の札がちらりと見えた。
それは、港や広場の賑わいとは無縁の、暗がりに沈む階段の入口だ。
(……やはり、気になりますね)
理由もなく近づくわけにはいかない。
だが、あの札と階段が、ただの倉庫や整備場のものだとは、どうしても思えなかった。
窓を閉じ、ランプに火を灯す。
今日見た光景の中で、あの影だけが胸の奥に残っている。
この街を立ち去る前に──もう少し、あの先について知っておく必要がある。




