第2話:魔女と世界の常識
石階段の先、ひときわ強く風が吹き抜けた。
私は手を翳し、光を遮る。まばゆい日差しに目を細めながら、そっと足を前へと踏み出した。
地上。
かつて私が生きていた時代──いや、封じられていた時代には想像すらできなかった光景が、そこにあった。
風に乗って流れ込んでくる、あまりにも自然で滑らかな魔力の気配。空気の中に満ちているそのエネルギーは、街のあらゆる仕組みに組み込まれていた。
それは、まるで水や火のように、日常に馴染んでいる。
(……魔法が、ここまで生活に溶け込むとは)
思わず、ひとりごちた。
いや、驚くべきはそれだけではない。目の前の広場では、幼い子どもたちが、魔法で生成された光の球を追いかけて遊んでいた
浮遊、加速、反射。いずれも私の時代には基本術式に分類されていたものだ。
(それを、子どもが……?)
私はそっと目を伏せる。
かつて、魔法は一部の貴族と選ばれた魔法師のみが扱う、支配と戦争の道具だった。
それが今では、子どもが遊びに使い、街の清掃装置が魔法式で動いている。
「………………」
胸の奥に、わずかな震えが走る。
私が望んだ理想。あの時、否定され、拒絶され、封じられた思想が──
こんなにも、自然に根づいている。
(……理想が、実現されたのですか。私を否定した世界が)
言葉にはしなかった。けれど、心の中でそっと問いかける。
通りの先には、魔法式の発光看板が設置されていた。
案内板には、「市営魔法案内機」「ようこそアルマ=リード都市へ」の文字。
(都市……ということは、ここはひとつの拠点なのでしょうね。魔力の流れが集まっています)
ふと、掲示板のようなパネルに映し出されている日付を見ると、魔法歴5025年と記されている。
私の時代から約四千年も経っていることがわかる。
(そうですか……そんなに長い年月が流れたのですね……)
私は静かに歩き出す。
誰の視線も、気に留める様子はなかった。
この世界の人々にとって、私の姿も、装いも、珍しくないのだろうか。
(便利、ですね……けれど)
その先の道すがら、魔法式の飲料販売機が、煌々と輝いていた。
中には瓶詰めの液体。強化剤か、魔力活性飲料のようだ。パネルには、数列の数字と、通貨単位らしき記号。
「……これが、通貨……?」
私は足を止め、軽く指を伸ばしかけたが──すぐに手を引いた。
私の手の中には、何もない。
(……そもそも、私はこの世界の通貨を持っていない)
ふと、疑問が胸に浮かんだ。
(この時代で、私は……どうやって、生きていけばいいのでしょう?)
それが、旅の第一の壁となった。
* * *
私はさらに街を歩いた。
すれ違う人々は皆、手に小さな板のような装置を持ち、指先で触れるたび、光が走っていた。
簡易魔法端末。音声のやり取りや位置の確認、取引などができるように見える。
魔法がこれほど高度かつ実用的に使われているとは、想像していなかった。
(魔法というものが……ここまで道具として定着しているのですね)
驚きはあっても、もはや戸惑いはなかった。
けれど──
「……お嬢さん、買わないのかい?」
私は声をかけられて、顔を上げた。
そこには、小さな屋台があった。
焼きたての菓子パンのような香りが漂ってくる。
声をかけてきたのは、白髪まじりの初老の男性だった。にこにこと優しげな笑みを浮かべている。
「……お嬢さん? あ……いえ、すみません。 眺めていただけです」
私は軽く頭を下げる。
だが、男性は気さくに続けた。
「珍しい格好だねえ。旅行者かい? この辺の人間じゃなさそうだ」
「……ええ。旅の者です。いま、来たばかりで……この街のことも、よく知らなくて」
「ふむふむ、それなら大変だ。何か困ってることがあれば聞いていきな」
「それでは……ひとつ伺っても?」
私は少しだけ姿勢を正した。
「この世界……いえ、この街で、生きていくには、通貨が必要ですよね」
「そりゃそうだ。パンひとつ買うにも金がいるさ。最近は端末決済が多いが、現金も使える」
「私は、それを……持っていません。いったい、どこで得るべきなのでしょうか」
私の問いに、屋台のおじさんは目をぱちくりとさせたあと、肩をすくめた。
「そりゃ、どこかで働くか、冒険者にでもなるかだな」
「冒険者……?」
「登録すれば依頼を受けられる。魔法が使えるなら、簡単な仕事はあるだろう。荷運びから魔物退治まで色々だよ」
「魔法で……仕事を?」
私は思わず、問い返していた。
「この時代、魔法で生計を立てるのですか?」
「ははは、お嬢さん、面白いことを言うな! そりゃそうさ。むしろ魔法が使えないと就けない仕事の方が多いぐらいだ」
(……なんと)
当時、魔法は使える者が使えない者を支配するための力だった。
それが今では、働くための技術として当たり前に用いられている。
私は胸の奥に、わずかな高鳴りを感じていた。
これは──理想に近い。
けれど、私の知らない形で成り立っている世界だ。
「……なるほど。ありがとうございます。勉強になります」
「いいってことよ。ああ、そうそう、冒険者ギルドはあっちの通りを抜けて2つ目の角を右だ。 案内板も出てるさ」
「……ありがとうございます」
私はもう一度、頭を下げた。
お金もない。戸籍もない。
けれど、生きる方法はある。
(誰にも知られず、誰にも縛られず。私は、この世界の中で……)
私は胸の前で、そっと両手を組む。
(もう一度、生き直してみましょう)
屋台を離れ、私はすぐに歩き出していた。
道順は聞いてある。通りを二つ抜けて、右。
この街の中心にあるという「冒険者ギルド」へ。
考えてみれば当然だ。
この時代の通貨を持たない私は、買い物も、宿を借りることもできない。
衣服も、食事も、居場所も……何一つ、持っていないのだ。
(魔法を使えるにしても、街中で勝手に術式を展開するわけにはいきませんし)
それに、野宿という選択肢が頭をよぎらなかったわけではない。
けれど──
「……今の私は女ですしね」
悩むことは多いが、折角なら今の人生を楽しみたい。
そう思うと、どうしても足は前へ向いた。
(ギルドに登録すれば、少なくとも名を記録されることになります)
それは、ある意味でこの時代に生きるということだ。
リシウスという名を捨てて、ルシアとして。
この世界に、再び一歩を踏み出すための儀式のようなものだと──そんな気がした。
通りの角を曲がると、遠くに大きな建物が見えた。
魔法式の掲示板には、浮かび上がる文字でこう表示されていた。
《冒険者ギルド・アルマ=リード支部》
「……さて」
私は、足元を見つめ、深呼吸をひとつ。
「まずは、この時代の一人にならなければなりませんね」
誰にも知られずに目覚めた私が、これから先何ができるのか。
それを知るには、まずこの世界の中に入っていかなければならない。
魔女としてではなく、一人の名もなき女として──
私はギルドの扉を見据えた。




