第19話:魔女と影の市
浮遊都市。湖上に築かれた、静謐なる空中の街。
そこを目指す旅の途上で、私は湖畔の小さな村に泊まることにした。
船便の接続が明朝になると聞いて、一夜の足止めを余儀なくされたが、それが不思議と悪いことには思えなかった。
村はこぢんまりとしていて、石畳の道も港も質素だったが、そのぶん湖から吹く風が静かに心を撫でてくれる。
宿の部屋は木造で、簡素な調度品と小さなベッドだけが置かれていた。
部屋の隅には古びたランプ。窓の外には、どこまでも広がる暗い水面。
夜は深まり、湖の水面も眠っているように静かだった。
窓の外には薄い雲が流れ、星の瞬きが時折それに飲み込まれては、また顔を出す。
私は一度、寝台に体を横たえたものの、なぜか眠気が訪れなかった。
気分を変えるために軽く外を歩こうと、上着を羽織って宿を出る。
湖畔の小道は、昼間よりもさらに静かだった。
人の気配も、魔力の流れも薄く、ただ風だけが髪を撫でていく。
足元に、白く淡い霧が流れてきた。
それは地を這うように濃くなり、やがて視界を覆い始める。
(……霧? こんなに急に)
歩を止め、辺りを見渡す。
次の瞬間、霧の向こうから光が差した。橙、紫、緑、さまざまな色がぼんやりと揺らめいている。
気づけば私は、小さな橋を渡っていた。
向こう岸には、いくつもの屋台が灯火を掲げて並んでいる。
見知らぬ場所。見知らぬ空間。
だが、不思議と怖れはなかった。
(……ここは、どこでしょうか)
橋を渡り終えたところで、霧がすうと引いていく。
そこに広がっていたのは、見たことのない──けれど夢の中でなら出会ったかもしれない──不思議な市だった。
空は夜のまま。だが、頭上には星も月もなかった。
地には灯火があり、屋台があり、人々がいた。
けれど、そのどれもがどこか曖昧で、輪郭が確かではない。
品物を並べる屋台も、売り手の顔も影のように薄い。
売られているものは、衣服でも果物でもない。
──記憶のかけら。
──感情の余韻。
──亡き者の声、誰かの願い。
(……これは、現実の市場ではありませんね)
観察しながら、私は思った。
ここにいる者たちは誰も口を開かない。ただ、灯火の下でなにかを交換している。
品物の輪郭は曖昧で、だが確かに意味を帯びていた。
「かつて愛した声」「後悔の涙」「生き別れた妻」──そんなものが、無言でやり取りされていた。
私は歩きながら、ふと思う。
(……なぜ、私には見えているのでしょうか)
答えは出ない。けれど、ひとつだけ感じていた。
この市は、ただ迷っただけでは辿り着けない。
霧に導かれ、心に揺らぎを抱えた者だけが、この場所の存在に引き寄せられるのだろう。
ただの旅人である私が、他の誰ともすれ違わずに、この特異な空間へと辿り着けた理由。
私は、四千年という時を封印の中で越えた存在。
世界の理も価値も、すっかり変わってしまった今を、未だに異邦人として歩いている。
しかもかつての私は、男だったの対して、今の私は女としてこの世に立ち、魔法という名の穏やかな力を扱い、ただ旅をしている。
心にあるのは、過去と現在の揺らぎ。
自らの姿に、言葉に、そして生き方にすら、未だに確かな輪郭を持てずにいる。
(……だから、私は引っかかったのかもしれませんね)
この市が存在するのは、夜と朝の狭間。
生者と死者、現実と夢、記憶と忘却、そのどれでもあり、どれでもない曖昧な場所。
その曖昧さに、私の存在が、よく似ていたのかもしれません。
* * *
気づけば私は、ある屋台の前で足を止めていた。
そこには一人の女性が立っていた。
年の頃は二十代半ばほど。瞳はどこか翳っていたが、表情には切実さが浮かんでいる。
彼女の視線の先には、灯火の皿に浮かぶ笑顔があった。
光で編まれたような輪郭。優しい頬の曲線。屈託のない瞳。
女性はゆっくりと手を伸ばしかけて、立ち止まる。
そして、見えない何かと向き合うように、しばらく沈黙したのち、静かに頷いた。
目に見えない対価が、差し出される。
その瞬間、笑顔の光が彼女の胸元へと吸い込まれるようにして溶けていった。
女性の顔が、ふっと和らいだ。
涙を流すでもなく、歓喜するでもなく、ただ深く、深く満ち足りたような表情。
そして彼女は、市の中へと静かに歩いていった。
私はその背を見送るだけだった。
声をかける理由もなければ、止める力もない。
(……代価は、きっと)
彼女が何を失ったのか、私は理解できた気がした。
この市では、何かを得れば、何かを失う。
その対価が、たとえ名前であろうと、未来であろうと。
* * *
静かだった。
まるで、夜明け前の湖面のように、世界が息を潜めている。
影の市は徐々に、何もなかったようにその姿を消していく。
いつの間にか屋台はなくなり、品物も、音楽も、灯りも消えていた。
まるで夢だったかのように、私はまた、薄明の道に一人立っていた。
……いや、ひとり、ではなかった。
そこに、先ほどの女の姿があった。
だが、その目は虚ろだった。
何かを失くしたことに気づいていないような、曇りきった瞳。
手には、何も持っていない。
ガラス瓶も、笑顔も、もうどこにもなかった。
「……あの……ここは、どこですか?」
女が私に問いかける。
その声は震えていて、まるで子どものようだった。
私は何も言えなかった。ただ、静かに首を横に振る。
「……そう、ですか……ごめんなさい……なんだか、変な夢を見たような……」
ふらりと女は道の向こうへ歩き出し、そのまま朝靄の中に、溶けるように消えていった。
* * *
陽が昇り始める。
湖畔の村には、日常が戻っていた。
市場もなければ、あの影のざわめきもない。
昨日と変わらないはずの朝。
しかし、私の中には、確かに何かが刻まれていた。
まるで夢の中の出来事。
けれど、私の足元には、一枚の影だけが残されていた。
誰のものでもない、誰かの想いの影。
淡く、儚く、朝日と共に消えていく。
(……あなたは、あの笑顔を手に入れましたね)
でも、それと引き換えに、自分が誰だったかを、忘れてしまった。
それでも、後悔のない選択だったのだろうか。
それとも、あれは――誰かを愛した者にしかできない、狂気のような優しさだったのか。
私はその答えを持たない。
ただ、世界のどこかに、そういう選択があり、そういう記憶があったことを、忘れずにいるだけ。
(……私はきっと、この旅を続けている限り、こんな夜に、また出会うのでしょう)
静かにそう思いながら、私は湖畔の空気に身を預ける。




