第16話:魔女と港町の朝
……柔らかな潮騒が、どこか遠くから響いている。
薄く閉じた瞼越しに、朝の光が差し込んできた。
身を横たえる敷布の感触は、宿のものとは違う。
ほのかに潮と木の香りが混ざった、温かい空気。
(……ここはどこですかね……?)
ゆっくりと瞼を開くと、天井は低く、梁には網や浮き玉が吊るされていた。
壁際には小さな棚があり、陶器の皿や干物が整然と並んでいる。
どう見ても、港町の誰かの家の一室だ。
起き上がろうとして、頭に軽い鈍痛が走る。
(……あぁ……やってしまいました)
昨夜の光景が、断片的に蘇る。
果実酒の甘い香り。
肩を組んで歌う漁師たち。
魔法で作った魚の群れが、紙灯籠の光を浴びてきらめいた瞬間。
そして、笑いすぎて涙を流していた奥さんたちの顔……。
(……完全に、浮かれていましたね……)
男だった頃は、酒にはそれなりに自信があった。
どれだけ飲んでも、足元が揺らぐことなど滅多になかった。
けれど、女になった今、昨夜の酔いの回り方は、あまりにも早かった。
(体質が変わった……のかもしれませんね。これは、考えものです)
そんなふうに苦笑していると、廊下の向こうから声がかかった。
「おや、ルシアちゃん、もう起きたのかい?」
引き戸の隙間から顔を覗かせたのは、昨夜の宴で何度も杯を交わした、あのふくよかな奥さんだった。
手には湯気を立てる木椀が2つ。
「ちょうど良かったよ。飲んだ翌朝は、やっぱりこれさ」
そう言って差し出されたのは、貝と野菜を煮込んだ温かなスープだった。
白い湯気に、海の香りとハーブの爽やかさが混ざっている。
「……ありがとうございます。いただきます」
一口啜れば、塩気がやわらかく体に染み渡る。
熱いスープを喉に通すたびに、昨夜の浮かれた自分と、今の静かな朝とが、不思議に交差していく。
「朝一の船はもう出ちまったし、ゆっくりしていきな。港の朝は、見どころが多いよ」
「……そうですね。少し、散歩でもしようかと思います。ごちそうさまでした」
杯を置き、潮風の匂いが漂う窓の外へ視線を向けた。
青く澄んだ海面が、朝日を受けて揺れている。
港町リュエンの新しい一日が、静かに始まっていた。
* * *
貝スープで体が温まったあと、私は港沿いの道へ出た。
朝のリュエンは、夜とはまるで別の顔をしている。
漁船が次々と桟橋に戻り、樽や籠が慌ただしく行き交い、威勢のいい声が飛び交っていた。
「おっ、ルシアちゃんじゃねぇか!」
突然、網を肩に担いだ漁師の男が手を振ってきた。
昨日、果実酒を一緒にあおった人物だ。
「昨日はありがとよ! あんな綺麗な魔法、初めて見たぜ!」
「あ、ええ……どうも……」
曖昧に微笑み返すと、すぐ後ろから別の声。
「お嬢ちゃん、おはよう! 昨日の魚のやつ、子どもが夢中でさ。今朝も『また見たい』って騒いでるよ!」
「……そ、それは……光栄です……」
返す言葉が、やけにたどたどしくなる。
通りを歩けば歩くほど、あちこちから「昨日は楽しかったな!」と声がかかる。
「ルシアちゃん、あの歌もう1回歌ってくれよ!」
「魔法で作った灯り、あれ家に飾れねぇのか?」
「今夜も宴やるかい?」
笑顔で返しながらも、内心では──
(……あぁ……やっぱり、浮かれてましたね、私……)
思い返せば、果実酒を片手に港の中央で歌い踊り、知らない人々と肩を組んで乾杯を繰り返していた。
あの時は楽しくて仕方がなかったが、こうして冷静になってみると……顔から火が出そうだ。
魚の干物を並べていた年配の女性まで、手を止めてにこやかに声をかけてくる。
「おや、ルシアちゃん。昨日のあんた、ほんと港の華だったよ。うちのじいさんなんて、帰ってからもしばらく笑ってたよ」
「……そ、そうでしたか……ありがとうございます」
背筋が微妙にむず痒くなる。
否応なく広まったらしい自分の評判に、足取りは妙に落ち着かない。
港の外れに差しかかるころ、潮風が頬を撫でた。
遠くで海鳥が鳴き、朝日を受けた波がきらきらと弾ける。
人々の温かさは嬉しい。……けれど、昨日の自分を思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。
(……まぁ、こういう旅の記憶も、悪くはありませんけれど)
小さく息をつき、再び港の中心へと足を向けた。
* * *
昼近くになると、港の喧騒はさらに増していた。
桟橋では新たな船が着き、商人や船員が威勢よく荷を運び込んでいる。
その合間を縫って、私は船乗り場の前に立っていた。
「これで、準備は整いましたね」
肩の荷を少しだけ持ち直す。
この港町で過ごした時間は短かったが、海の香りも、人々の笑い声も、鮮やかに胸に残っていた。
「おや、もう行くのかい?」
声をかけてきたのは、昨日私を泊めてくれた奥さんだった。
籠いっぱいに貝殻を入れ、腕には布袋を下げている。
「はい。また来る機会があれば、ぜひ」
「そりゃ嬉しいねぇ。また飲もうじゃないか」
奥さんはにやりと笑い、背中を軽く叩いてくる。
その視線は、昨日の私のはしゃぎぶりを思い出しているに違いない。
反論もできず、私は苦笑を浮かべるしかなかった。
港の通りを歩くと、見送りのように声が飛んでくる。
「ルシアちゃん、またなー!」
「今度はもっと強い酒用意しとくからよ!」
「灯りの魔法、忘れられねぇよ!」
「……ありがとうございます」
笑顔を返しつつも、心のどこかでそっと願う。
できれば、次訪れることがあれば、それまでに昨日の記憶は少し薄まってくれますように。
やがて船は港を出発する。
振り返れば、碧い海と白い町並みが陽光に照らされ、赤や青の屋根がまるで宝石のように輝いている。
帆船の帆が風を受け、港を静かに離れていく。
そこには昨日の夜、笑い合った人々の暮らしが確かに息づいていた。
(……また、来られるでしょうか)
そう呟き、私は海の先を見つめた。
潮風はまだ、背中を押してくれているように感じられた。




