第15話:魔女と潮風の町
海の匂いが、風と一緒に頬を撫でていった。
視界いっぱいに広がるのは、陽光を反射してきらめく碧い海と、その縁に並ぶ白壁の街並み。
建物の屋根は赤や青の瓦で彩られ、異国風の文様を刻んだアーチが路地を飾っている。
(……ここが、交易港リュエンですか)
港町の名は、かつて古代船団が寄港地とした「流縁」に由来するという。
今も南北を結ぶ交易の要衝として栄え、海からも陸からも、多種多様な人々が行き交っていた。
石畳の大通りを進むと、潮と香辛料が混ざった香りが漂ってくる。
通りには色鮮やかな日除け布が張られ、露店の棚には見慣れぬ果物や乾燥肉、瓶詰めの香草が並んでいた。
商人たちが声を張り上げ、異国の言葉で客を呼び止める。その合間には、船乗りが笑いながら樽を転がしていく姿もある。
「……賑やかですね」
小さく呟き、私は一歩足を止めた。
通りの向こうでは、民族楽器の軽やかな音色と、揺れるスカートを翻す踊り子の姿。
その足元に群がる子どもたちが、笑い声をあげながら真似をして跳ねている。
歩きながら、ふと香ばしい匂いが鼻をかすめた。
屋台の鉄板で、殻つきの小さな貝が焼かれ、香草入りのパンに挟まれている。
店主が軽く手を振り、「お嬢ちゃん、食べてみるかい?」と笑った。
「……ひとつ、いただきます」
端末で決済をすると、熱々のパンが紙包みに収められて差し出された。
一口かじれば、潮の旨味と香草の爽やかさが広がる。
遠くで獲れた食材と、この町ならではの調理法。そんな組み合わせの妙に、私は静かに目を細めた。
市場の喧騒は、どこか懐かしくもあり、同時に新鮮だった。
人々が互いに異なる言葉を交わしながらも、笑顔でやり取りを続けている光景は、この街が培ってきた年月そのものに見えた。
(……こういう場所も、悪くありませんね)
私は再び歩き出し、潮風に吹かれながら、港の中心へと向かっていった。
* * *
午後の日差しが傾き始めるころ、港の水面は黄金色に染まっていた。
大きな帆船がゆっくりと桟橋に寄せられ、荷役の掛け声が波間に響く。
吊り上げられた木箱からは果物や陶器が顔をのぞかせ、遠くの国から運ばれてきた香りがふわりと広がった。
波止場を歩いていると、木製の欄干にもたれかかって海を見つめる老人と目が合った。
日に焼けた顔に深い皺、背中は丸いが、その眼差しは静かに海を測るようだった。
「……旅の人かい?」
「ええ。この街は初めてです」
「なら、いい時季に来たな。北の海が凪いで、南からの船も増える。港が一番、色づく季節だ」
老人はそう言って、水平線の向こうを指差す。
そこには、白い帆を高く掲げた船影が、夕陽を背にこちらへ向かってくるのが見えた。
「船は生き物だ。人も貨も、夢も運んでくる。そして、またどこかへ連れて行く。……そういう匂いが、この町にはある」
短く礼を告げ、私は波止場を離れる。
ふと見上げれば、港沿いの家々の窓からはオレンジ色の灯りがともり始め、潮風に揺れる魔法灯が通りを照らしていた。
やがて、港の端に小さな市場が開かれる。
昼間の喧騒より落ち着いた雰囲気で、屋台では海鮮スープや果実酒が湯気を立て、通りには楽師が弦を爪弾く音が漂う。
その音に合わせて、小さな女の子がぎこちなくも楽しげに踊っていた。
彼女の母親らしき女性が笑いながら拍手を送り、それを見た周囲の人々も手を叩く。
(……温かい場所ですね)
異国の港町は、戦いや依頼とは無縁の時間を与えてくれる。
潮騒と人の声が混ざり合う中で、私はふと、旅の歩みを少しだけ緩めてもいいと思えた。
夜の港町は、昼間の喧騒とは別の熱気に包まれていた。
海沿いの小道に小さな屋台が並び、串焼きや魚の香りが風に乗って漂ってくる。
赤や橙の紙灯籠が頭上で揺れ、波の音と笑い声が入り混じっていた。
「……賑やかですね」
ぶらりと歩くうち、果実酒を売る小さな屋台の前で足が止まる。
琥珀色の液体が木の樽から注がれ、ほのかな甘い香りが漂っていた。
店主の男がにこやかに声をかけてくる。
「おーい、そこの嬢ちゃん! 旅の人だろ? 一杯やってけ!」
声をかけてきたのは、日焼けした腕の太い漁師の男。
その隣では、ふくよかな奥さんが「遠慮せず座んな!」と空いた椅子をぽんぽん叩く。
「……では、お言葉に甘えて」
差し出された木杯に、琥珀色の果実酒がなみなみと注がれる。
一口含むと、爽やかな甘みと微かな酸味が広がり、喉の奥をやわらかな熱が流れた。
(……美味しいですね。これはつい進みそうです)
気付けば二杯目、三杯目。
視界がじんわり明るく、周囲の声がやけに心地よく響く。
「そんでさぁ、私は言ってやったんですよ! あははっ! 魔法はみんな平等にですよ、与えられるべきなんですって!」
気づけば、港の男たちと肩を組み、大声で笑っていた。
漁師たちの奥さんたちも混ざり、「ほら、食べな食べな!」と串焼きや揚げ魚が次々差し出される。
知らない子どもまで、にやにやしながら果実酒の樽を抱えて近づいてくる。
「あはははっ! みんなで乾杯ですよーっ!」
「おおーっ!」
掛け声と共に、十数人の杯が一斉にぶつかり合う。
甘い酒の香りがふわっと立ちのぼり、笑い声がさらに高く弾けた。
「なあルシアちゃん、面白い魔法使えるんだろ? なんか見せてくれよ!」
「そうだそうだ、港じゃあんまりそういうの見られねぇんだ!」
「ええ〜? 仕方ないですね〜。……じゃあ、少しだけルシアちゃんがサービスしちゃいますよ〜?」
私が片手を掲げると、周囲がわっと静まった。
指先に魔力を集め、空中に小さな水球を浮かべる。
それがくるくる回転しながら形を変え、魚や貝の姿を描き出す。
「おおお……!」
「見ろよ、魚が泳いでる!」
水の魚は灯籠の光を反射し、銀色にきらめきながら輪を描く。
さらに指を鳴らすと、水がぱっと霧になり、細かな光の粒が夜空へ舞い上がった。
「綺麗だぁ!」
「すげぇ……!」
拍手と口笛、そして再びの乾杯。
気づけば私は、港の人々の真ん中で、歌を歌い、踊り、笑っていた。
男たちが肩を組み、奥さんたちが手を叩き、子どもたちが「もう1回!」と叫ぶ。
港全体が1つの宴のように揺れていた。
(……なんだか、とても楽しいですね……!)
潮風が頬を撫で、紙灯籠の灯りがゆらゆら揺れる。
世界は柔らかく、そしてやけに近かった。




