第1話:その理想は、早すぎた
「……リシウス殿。貴殿の魔法理論と、それに基づく実験の一切は、この国の秩序と階級制を脅かす、危険思想であると認定された」
荘厳な天蓋の下、評議会の大広間にその言葉が響いた瞬間、空気は緊張に包まれた。
立っていたのは、ただ一人の青年。
黒の法衣に身を包み、銀の髪を振り払うようにして顔を上げる。
名を、リシウス・フェルナード。
平民の出でありながら、異例の才能によって魔法界の頂点に登り詰めた若き天才。
だが今、彼はその頂から叩き落とされようとしていた。
「……私の理論が、なぜ危険なのです?」
リシウスの声は静かだった。
恐れでも怒りでもない。ただ真実を問いかけるような、淡々とした声音。
「魔法は選ばれた者だけが使うべきものではない。生まれや血に関係なく、誰もが力を持って生きられる。私は、そう信じているだけです」
「力は血に宿る。才なき者が魔法を持てば、秩序が崩れる」
「その通りだ。貴様の思想は、民草に誤った夢を抱かせる!」
「……それが、そんなに悪いことですか?」
評議会の誰一人として、その問いには答えなかった。
答えずともよかった。彼らにとってリシウスの存在こそが答えだった。
無血統の若者が、理論と術式だけで既存の支配体系を揺るがした。
だからこそ、その理想もろとも葬らねばならない。
議長が、冷たく言い放つ。
「貴殿の理想は、未成熟であり、未完成であり、未承認である。よって、永久封印の刑に処す」
その言葉を合図に、天井の魔法陣が起動する。光が降り注ぎ、幾重もの術式が発動した。
封印術だけではない。
その中には、明らかに異質な呪文が含まれていた。
──身体再構成。
リシウスの肉体を、《《女性の形》》へと最適化する術式。
「魔力の暴走を抑制するため」「封印適合のため」という大義名分の裏に、
「男の中でもリシウスの魔力量が多いため、魔力量の少ない女に念のため変えてしまおう」というような意図があった。
「っ……貴様ら……!」
リシウスは魔力を展開しようとするが、数十名の大魔法師たちによる多重結界がそれを許さない。
体が、意識が、術式の奔流に飲み込まれていく。
足元が崩れ、視界が反転し、全身が魔力の光に焼かれる。
まだ、私は……終わっていない……!
叫びは届かず、最後の抵抗は、封印の光に掻き消された。
評議会の者たちは、誰一人としてその場に留まらなかった。
次々と背を向け、議場を去っていく。
まるで最初から、そこに彼など存在しなかったかのように。
こうしてリシウス・フェルナードは、名も理想も奪われ、永劫の眠りに落とされた。
* * *
それから、どれほどの時が流れたのか。
世界は変わり、歴史は積み重なり、人々は忘れていった。
リシウス・フェルナードという名も、危険思想というレッテルも、
やがてただの古い伝説となり、そして完全に風化した。
だが封印は、そこに在り続けた。
大地の奥底、誰の目にも触れぬ深層にて。
永劫を誓わされた結界は、ただ淡々と時を数え続け──
──そして、ついに、その時が来た。
ある地層下で、都市開発に伴う地下魔力網の調整工事が行われていた。
最新の精密魔力測定装置が、誤差レベルの揺らぎを記録する。
誰にも気づかれぬほどの、ごくわずかな魔力干渉。
だがそれは、決して無意味な綻びではなかった。
それは、四千年という時間が結界に穿った自然の崩壊──
術式の外縁部から始まった微細なひびは、やがて内側の構造をも蝕み、
崩壊は連鎖的に進行する。
無音のまま、封印は壊れた。
世界の誰も気づくことなく、地下の一画に、かすかな光が満ちる。
その中心に私は眠っていた。
長い銀の髪。魔法師的な黒いローブが身を包む。
目を閉じたままの体には、もはや結界の呪縛は残されていない。
次の瞬間、その睫毛が微かに揺れた。
ゆっくりと、私は目を開けた。
「………………」
まるで深い水の底から浮かび上がるように、現実が意識へ戻ってくる。
空気の感触。地の匂い。全身に絡みつく残滓の魔力。
そして──自分の手。
細く、白く、滑らかで……見覚えのない指。
「……ふふ……なるほど」
唇が、静かに笑みを刻んだ。
そうだった。あの時、封印と共に、肉体を……変えられたのだった。
だが、不思議と怒りはなかった。
それよりも何かが、胸を満たしていた。
空気が、違う。
魔力の流れが、違う。
時代が変わっている。私の深層意識が、それを直感していた。
「……私の理想は、まだ否定されているのでしょうか。それとも……ようやく、追いついてくれたのか」
自嘲のように、ひとりごちる。
誰も答える者はいない。
この場所に、私の姿を見た者は一人もいない。
目撃者はおらず、記録も残らず──
ならば、新しい名を持とう。
この体に、かつての名は、もう似合わない。
「……ルシア・フェーン。そう、名乗ることにしましょう」
響きの中に、かつての自分の名が、わずかに残っている。
けれどもう、その理想も、存在も、誰にも知られることはない。
だからこそ自由だ。
私は静かに、両の手を重ねる。
掌の内に魔力を集め、呼吸と共に巡らせる──かつて幾千回と繰り返した、基礎術式の始動。
魔力の質、密度、応答……。
「……なるほど」
私は苦笑した。
「魔力量に影響が出るかと思ったのですが……全く変わっていませんね」
肉体が変わろうと、核にある私の本質までは弄れなかったか──それとも、弄ったつもりで何も変わらなかったのか。
どちらにせよ、評議会の思惑は滑稽だった。
「女の姿に変えたところで、私は私。……魔女、といったところでしょうか、世界から追放された私にはお似合いですね」
その言葉に、わずかな重みがあった。
魔法師ではなく、魔女。
かつて魔力量の多い女性は恐れられ、忌諱された者たちの呼び名。
だが、今の私には……少し、似合っている気がした。
私はひとり、微笑む。
結界の消滅とともに生成された、自然崩壊の抜け道を通って、地上へと向かう。
封印から解き放たれたその身体は、ふらつくこともなく、しっかりと歩を進めていた。
静かに、誰にも気づかれず。
* * *
地上に顔を出したその瞬間、私はまばゆい光に目を細めた。
広がる空。
見慣れぬ建造物。
空を舞う案内端末。
誰もが自然に魔力を操る、人々の暮らし。
そのすべてが、私の知る世界ではなかった。
「……随分と、変わりましたね」
だが、怖くはない。
心の底から、知りたかった。
この時代が、どんな価値を持ち、どんな希望を抱いて生きているのか。
「さて──旅を始めましょうか。私はもう、誰にも縛られない。ただこの目で、今を見ていくだけです」
かつて異端とされた魔法師。
今はただ、名もなき女性として、風の中へ歩み出す。
封印されし魔女は、誰にも知られることなく、再び世界と出会うのだった。