第69話 好きと嫌いの境界線
「……あ、そろそろ行こっか」
朱里はカフェの紙コップをゴミ箱に捨てながら、努めて明るく言った。
けれど、その声にはどこかぎこちなさが混じっている。
モールのざわめきが、彼女の動揺を誤魔化してくれているようだった。
嵩は隣で穏やかにうなずく。
「うん。帰り、駅まで送るよ」
「い、いいよ! 近いし」
「どうせ同じ方向だし」
淡々とした口調なのに、なんだかズルい。
“どうせ”って言葉ひとつで、心の距離を勝手に近づけてくるのだから。
──朱里は知らないうちに、また心をくすぐられていた。
モールのエントランスを出ると、秋の風が頬を撫でる。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、外は静かだった。
「そういえば、望月さんの話──もう終わったのか?」
嵩の何気ない一言に、朱里の足が止まった。
「……え?」
「前に話してただろ。新人の子、調子が悪そうだって」
「ああ、うん……」
違う。そうじゃない。
朱里が“瑠奈の話”をしたときのそれは、もっと複雑な感情だったのに。
嵩は、まるで仕事の相談のようにしか捉えていない。
(ほんとに鈍感……! いや、もしかして、わざと?)
朱里はため息をついて、少し歩幅を広げた。
「ま、いろいろあるけど。あの子、可愛いもんね。モテそうだし」
「……そうか?」
「え、否定しないんだ」
思わず立ち止まり、朱里は嵩を見上げる。
嵩は困ったように笑った。
「可愛いとは思うよ。でも、それと仕事は関係ないだろ」
「……真面目だなぁ、ほんと」
「お互い様だろ?」
その返しに、朱里は口を尖らせた。
ほんの少し、悔しい。
でも同時に、なんだか嬉しい。
(この感じ……“好き”なのか“嫌い”なのか、自分でももうわからない)
「ねぇ、嵩さん」
「ん?」
「“大嫌い”って、100回言ったら、どう思う?」
唐突な質問に、嵩は一瞬きょとんとした。
「100回?」
「そう。毎日、“大嫌い”って言い続けたら……そのうち、どうなると思う?」
嵩は腕を組んで、わざとらしく考えるふりをした。
「うーん……100回言う前に、俺の方が“好き”って言いそうだけど?」
「……っ!」
朱里の頬が一気に赤くなった。
嵩は涼しい顔のまま、前を向いて歩き出す。
「ま、冗談だよ。そんな顔すんな」
「……冗談に聞こえないっての!」
「じゃあ、どう聞こえた?」
「……知らないっ!」
朱里はぷいっと顔を背けた。
だけど、耳まで真っ赤になっているのを自覚していた。
──ああ、もう。
この人の“ずるい”は、どこまでいっても止まらない。
彼の歩幅に追いつきながら、朱里はそっと心の中で呟く。
(ねぇ、嵩さん。わたし、あなたのこと──本気で“嫌い”になれそうにないよ)
夕暮れの空が、ふたりの影を長く伸ばしていく。
風に混じって、微かにコーヒーの香りが残っていた。