第62話 揺れる午後
午後のオフィスは、いつもより静かに感じた。
エアコンの微かな風の音が、やけに耳に残る。
朱里はパソコンの画面を見つめながらも、文字が頭に入ってこなかった。
心の奥が、ずっとざわついている。
──平田先輩、転勤。
その言葉だけが、何度も脳内で繰り返されていた。
「中谷先輩?」
隣のデスクから、瑠奈の声がした。
「えっ、あ、なに?」
「今日の資料、平田先輩に渡しました? 会議で使うやつ」
「……あっ、まだだったかも」
立ち上がると、脚が少し震えた。
自分でも、どれだけ動揺しているのかがわかってしまう。
(転勤……って、いつ? どこに? どうしてそんな話、今なの?)
嵩のデスクは、昼休み以降ずっと空だった。
外回りの予定が入っていたのか、もう帰社しないのかもわからない。
そのことがまた、朱里の不安を膨らませていく。
「中谷先輩、大丈夫ですか?」
瑠奈が心配そうに覗き込む。
その笑顔を見て、胸の奥がチクリと痛んだ。
(この子が、もし平田先輩の隣に立つようになったら……私は、どうするんだろう)
夕方。
帰り支度をしながら、朱里は社内のエントランスで足を止めた。
──いた。
ガラス越しに見えるカフェスペース。
そこに、平田と瑠奈が並んで座っていた。
笑顔で話している。
いつもどおりの、穏やかな雰囲気。
だが、その光景が胸に突き刺さる。
(そんな顔、私の前ではあんまり見せてくれなかったのに……)
朱里は足を動かせなかった。
コーヒーを差し出す瑠奈の仕草。
軽く笑う嵩の横顔。
全部、絵に描いたようにお似合いで。
──そのとき。
「朱里?」
背後から聞こえた声に、ハッとして振り返る。
田中美鈴が、紙袋を抱えて立っていた。
「……なんでそんな顔してるの?」
「え……な、なんでもないよ」
「嘘。あんたの“なんでもない”は、全然なんでもなくないの、知ってる」
美鈴は腕を組み、朱里の視線の先に気づいた。
そして、小さく息をつく。
「なるほどね」
「見ないで。お願い」
「無理。あんた、また強がってる顔してる」
朱里は堪えきれず、俯いた。
唇を噛みしめる。
涙が出るほどじゃない。
でも、胸の奥が焼けるように熱い。
「……大嫌いって、言えば言うほど苦しくなるね」
「それ、もう恋の重症だよ」
美鈴は苦笑しながら、紙袋を差し出した。
「はい、これ。甘いものでも食べな。
強がるのは、ケーキ食べてからでもできるでしょ」
朱里は思わず笑ってしまう。
「……ありがとう、美鈴」
「礼はいいから。次の週末、作戦会議ね」
作戦会議。
そう、また立ち上がればいい。
今度こそ、自分の言葉で気持ちを伝えるために。