第54話 ショッピングモールの誘惑
駅から徒歩五分。休日のショッピングモールは、思っていた以上に人で溢れていた。
朱里は人混みの中、隣を歩く平田嵩の横顔をちらちらと見ながら、落ち着かない様子で歩いていた。
「すごい人ですね……」
「うん。みんな同じこと考えてるんだろうね。外暑いし、屋内が一番」
嵩は笑いながらエスカレーターに乗る。
朱里も慌ててその隣に並ぶが、距離が近すぎて心臓が痛いほどドキドキした。
斜め上から見える彼の顎のライン、シャツの襟元からのぞく首筋。
──落ち着け、中谷朱里。これはただの休日。仕事仲間との外出。そう、気分転換。
「中谷さん、雑貨とか好きでしたよね?」
「えっ? あ、まあ……」
「ちょっと寄ってみません?」
そう言って嵩は雑貨屋に足を踏み入れた。
店内は、淡い香りとBGMで満たされていた。
ハーバリウム、香水瓶、マグカップ……女子が喜びそうなものばかり並ぶ棚の前で、嵩が立ち止まる。
「これ、中谷さんっぽいかも」
手に取ったのは、青と白のマーブル模様のマグカップ。
「えっ……なんで私っぽいんですか?」
「なんとなく。冷静そうに見えて、ちゃんと温かい感じがするから」
「なっ……!」
朱里の頬が一気に赤くなった。心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほど響く。
嵩は気づいているのかいないのか、いつもの調子で棚に視線を戻している。
──もう、やめて。そんなこと言われたら、勘違いするじゃない。
「こ、これ買うんですか?」
「うん。会社用のマグ、割っちゃって。これくらいの落ち着いた色ならいいでしょ」
「……そうですね」
レジで会計を済ませたあと、嵩が小さく笑った。
「でも、ほんとはさ。中谷さんが持ってるの、見てみたかったかも」
「え?!」
「だって、似合いそうだったから」
──ずるい。ほんとに、ずるすぎる。
朱里は返す言葉が見つからず、視線を落とした。
嵩が少し前を歩くたびに、彼の背中を目で追ってしまう。
近くて、遠い。掴めそうで掴めない。
そのとき、不意に“あの言葉”が喉元まで出かかった。
でも、朱里はぎゅっと拳を握りしめて飲み込んだ。
──今ここで「大嫌い」なんて言ったら、きっと壊れる。
かわりに小さく息をつき、呟く。
「……好きになりたくなんて、ないのに」
人混みのざわめきの中で、その言葉は誰にも届かず消えていった。