第5話 言えない言葉
家に帰り着いたのは、夜の九時過ぎだった。
雨で濡れた髪をタオルで拭きながら、朱里は鏡の前に立つ。そこに映るのは、頬をほんのり赤らめた自分。
「……何やってるの、私」
独り言をつぶやいて、タオルを投げ出した。
頭の中には、駅前で傘を閉じて振り返った嵩の姿が焼きついて離れない。
『もし本当に嫌われてるなら、僕は困ります』
あの言葉を思い出すだけで、胸が熱くなる。
困る、なんて──どうしてそんなふうに言ってくれるのだろう。
「大嫌い、なんて……嘘ばっかり」
本当は、一度だって嫌いになんて思ったことはない。
むしろ、気づけば視線で追ってしまう。些細な言葉に一喜一憂してしまう。
それを知られたくなくて、つい口をついて出るのは「大嫌い」。
「百回言ったら、好きに変わる……どころか、もうとっくに好きなのに」
ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。
心臓の鼓動がうるさくて、眠れそうになかった。
朱里はスマートフォンを手に取って、連絡先一覧を眺めた。
「平田嵩」という名前に指先が触れる。
けれど、開くこともできず、画面を消した。
言いたいことはたくさんある。
「ありがとう」とか、「優しいところが好き」とか。
でも、口から出てしまうのは「大嫌い」ばかり。
どうしてこんなに素直になれないのだろう。
もしも、正直に伝えたら……彼は笑ってくれるだろうか。
それとも、困ったように距離を置かれてしまうのだろうか。
「……怖い」
ぽつりとつぶやいて、朱里は目を閉じた。
眠りに落ちる寸前、心の中で繰り返したのは───
「大嫌い」ではなく、「好き」という言葉だった。