第4話 雨宿りの距離
夕方、退社時間になると、外は激しい雨に変わっていた。
オフィスの窓を打つ雨音に、朱里は小さく舌打ちをした。傘を持っていない。朝の天気予報を信じてしまった自分を恨む。
「中谷さん、傘、持ってます?」
声をかけてきたのは嵩だった。
「……持ってません」
「じゃあ、良かったら一緒に帰りませんか?駅までなら相合傘でいけます」
差し出された黒い折り畳み傘。朱里は一瞬、ためらった。
嬉しいはずなのに、口から出たのは反射的な言葉。
「そういうの、誰にでもしてるんでしょう?大嫌いです」
七回目の「大嫌い」。
嵩の眉がわずかに下がった。
「僕、誰にでもこんなことしませんよ」
「……」
答えられずにいると、嵩は軽く笑った。
「まあ、いいです。強がってても風邪ひかれたら困るんで」
結局、朱里は彼の傘に入ることになった。
狭い歩道、肩が触れるほど近い距離。雨の匂いと、嵩のスーツの柔らかな香りが混ざって胸をざわつかせる。
「……あの、大嫌いって、どういう意味なんですか?」
嵩がふいに尋ねてきた。
「どういう意味って……そのままの意味です」
「でも、嫌われるようなことした覚えはないんですよね」
朱里は視線を逸らす。傘の端から落ちる雨粒をじっと見つめた。
本当は、嫌いなんて一度も思ったことがない。むしろ、好きで仕方ない。
でもその気持ちを言葉にする勇気がない。
「……先輩って、優しすぎるんですよ」
ようやく絞り出したのは、そんな曖昧な言葉だった。
「優しすぎる……それも、嫌われる理由になるんですか?」
嵩の真剣な声に、朱里の胸が苦しくなる。
「……わかりません」
答えは結局、逃げるように曖昧にした。
駅の屋根の下に着くと、嵩は静かに傘を閉じた。
「中谷さんが何を考えてるのか、まだわからないですけど……もし本当に嫌われてるなら、僕は困ります」
その言葉に、朱里の心臓が大きく跳ねた。
困る、なんて。そんなふうに思ってくれていたの?
「……とにかく、風邪ひかないように」
嵩はそれ以上何も言わず、改札へと歩いていった。
残された朱里は、しばらくその背中を見つめていた。
「大嫌い」と言えば言うほど、彼は困った顔をする。
それが、どうしようもなく愛おしい。
──百回なんて、とても言い切れそうにない。
朱里はそう思いながら、ゆっくりと家路についた。