第32話 素直になれない病
月曜の朝。
朱里はオフィスの入り口で深呼吸をした。
(よし、今日は素直に……!)
美鈴に「行動あるのみ」と背中を押されてから二日。
朱里は決心していた。
「大嫌い」じゃなくて、「ありがとう」や「お疲れさま」をちゃんと言おう。
それくらいならできるはず。
ちょうどその時、エレベーターの前で嵩と鉢合わせた。
「おはようございます、中谷さん」
いつもの柔らかい笑顔。
朱里の心臓はドクンと跳ねた。
(よし、ここで……自然に!)
「お、おは……」
言いかけた瞬間、頭の中が真っ白になる。
沈黙に耐えられず、反射的に口から飛び出した言葉は──
「……大嫌い」
最悪。
よりによって一番言っちゃダメなセリフ。
「え?」
嵩がきょとんと目を瞬かせる。
「ち、違っ……その、えっと……」
朱里は慌てて手を振るが、頭の中は大混乱。
「い、いまのは……その……冗談です!」
「……ああ、冗談、ですか」
嵩は苦笑しながらも、どこか寂しそうに目を伏せた。
その表情に、朱里の胸は締め付けられる。
(あああ、またやっちゃった……!せっかく素直になろうと思ったのに……)
エレベーターに一緒に乗り込むが、重苦しい沈黙。
朱里は自分の靴のつま先ばかり見つめて、降りる階を心待ちにしていた。
──結局、「おはようございます」の一言さえ言えなかった。
デスクに戻ると、美鈴からタイミングよくメッセージが届いていた。
【で、今朝は素直に言えた?】
朱里は額に手を当てて、小さくため息を漏らした。
(言えるわけないじゃない……私、ほんとに“素直になれない病”だわ)
返信は短く。
【失敗。】
送信ボタンを押した瞬間、朱里は机に突っ伏した。
──こじらせの道は、まだまだ続きそうだった。