第3話 揺れる心音
翌朝。
オフィスの窓から差し込む朝日が、朱里の眠そうな顔を照らしていた。
昨夜は結局ほとんど眠れなかった。
枕を抱えて何度も寝返りを打つたびに、頭の中には同じ場面がよぎる。
──「大嫌いです。そういう押しつけがましいの」
自分の声。
嵩の苦笑。
そして、雨の夜道を一人で駆け抜けた寂しさ。
(何やってるんだろう、私……)
コーヒーを一口飲んでも、胸のもやもやは消えなかった。
午前中の会議。
朱里が説明している最中、嵩が何度もフォローを入れてくれる。
その度に会議室の空気は和やかになり、上司たちの反応も良くなる。
(……やっぱりこの人は、すごい)
尊敬と同時に、またも嫉妬が胸をかすめる。
彼が「誰にでも優しい」ことを知っているからこそ、その優しさを独り占めしたくなる。
会議が終わった後。
嵩が朱里に声をかけた。
「さっきのプレゼン、すごく良かったですよ」
「……ありがとうございます」
思わず素直に礼を言ってしまい、朱里は慌てて顔を背ける。
すると嵩が続けた。
「でも、ちょっと疲れてませんか? 昨日……無理しましたよね」
朱里の心臓が跳ねた。
やっぱり見抜かれていた。
「そんなことないです」
否定の言葉と同時に、口が勝手に動く。
「そうやって心配ばかりして……だから、大嫌いなんです」
──五回目。
嵩は困ったように笑う。
「またですか……」
朱里は視線を落とし、机の書類をいじるふりをする。
(どうして。どうしてこうなるの。素直になれないだけで、本当は──)
昼休み。
朱里は社食の隅の席に一人で座っていた。
トレイの上のパスタをほとんど手つかずのまま、ただフォークでかき回している。
「ここ、いいですか?」
不意に声をかけられて顔を上げると、嵩が立っていた。
「……他の席、空いてますよ」
「でも、中谷さんと話したくて」
嵩は勝手に隣に座り、同じトレイのハンバーグを置いた。
近い距離に、朱里の心臓が早鐘を打つ。
「最近、何かあったんですか?」
真っ直ぐな視線。
「僕に隠してること、ありますよね」
朱里の呼吸が止まる。
(あるに決まってる。全部、あなたに関すること。
でも言えるわけない。『好きです』なんて、絶対に)
「……ありません」
絞り出すように答えた。
嵩は少し黙り込んでから、優しく笑った。
「そっか。じゃあ無理に聞きません。でも、もし辛くなったら頼ってください」
朱里の唇が震える。
──どうして。
──どうしてそんな風に優しいの。
「……もう、本当に大嫌いです」
──六回目。
呟きはほとんど祈りのようだった。
嵩はぽかんとした顔をして、やがて苦笑に変える。
「やっぱり今日もそれですか」
朱里はフォークを握りしめながら、必死で顔を伏せた。
(違うのに。本当は、大好きで仕方ないのに)
夜、帰宅した朱里はベッドに倒れ込んだ。
カレンダーを見つめる。
──まだ、六回。
もし本当に「百回」を言い切ったら、この想いは変わるのだろうか。
それとも、もっと取り返しのつかない後悔だけが積み重なっていくのだろうか。
「大嫌い……大好き……」
心の中で繰り返すたびに、涙がにじんで止まらなかった。