第172話 噂は、本人より先に走る
朝のフロアは、どこか落ち着きがなかった。
パソコンの起動音、コピー機の駆動音、その隙間に、ひそひそとした声。
朱里が席に着くと、すでに“それ”は空気に混ざっていた。
「……平田さん、異動らしいよ」
「え、転勤?聞いてないけど」
背中側から聞こえてくる声に、朱里の指が一瞬止まる。
(……早い)
まだ正式に発表されたわけじゃない。
でも、“噂”はいつも本人より先に走る。
「地方って話もあるらしい」
「えー、急じゃない?」
朱里は、画面を見つめたまま、何も言わなかった。
言えない。
言う立場じゃない。
(私は、まだ何も決めてない)
自分に言い聞かせるように、マウスを握り直す。
「中谷先輩」
背後から、明るすぎる声。
「平田さん、転勤するんですか?」
望月瑠奈だった。
あまりにもストレートで、周囲の空気が一瞬固まる。
「……私は、詳しくは知らない」 朱里は、言葉を選んで答える。
「そうなんですか?」 瑠奈は首を傾げる。
「でも、先輩と平田さん、最近よく一緒に帰ってますよね」
──来た。
視線が、さりげなく集まる。
朱里は、深く息を吸った。
「仕事以外のことは、仕事に持ち込まない」
「それだけです」
淡々とした声だった。
感情を乗せない。
美鈴に教えられた“立ち位置”。
瑠奈は、少しだけ目を細める。
「……なるほど」
「じゃあ、先輩は“待つ側”なんですね」
核心を突かれた気がして、胸がきしむ。
でも、否定しなかった。
「……そう見えるなら、それでいい」
その返事に、瑠奈は一瞬黙る。
そして、小さく笑った。
「先輩、強いですね」
「私なら、もう白黒つけたくなります」
「強くない」 朱里は、正直に言った。
「怖いだけ」
その一言で、空気が少し変わった。
昼前、美鈴が自席から顔を上げる。
「中谷、会議室。五分」
短い指示。
でも、その声に迷いはない。
◆会議室
ドアを閉めた瞬間、美鈴が言った。
「噂、回ってる」
「想定より早い」
朱里は頷く。
「……耐えられます」
「今は、余計なこと言わないって決めたので」
美鈴は、少しだけ微笑んだ。
「いい判断」
「“関係者です”って顔をしないのも、立派な仕事」
そして、声を落とす。
「でもね」
「限界が来たら、私を使いな」
朱里は、思わず笑ってしまった。
「親友、心強すぎません?」
「仕事では冷たい上司」
「私生活では親友」
美鈴は、さらっと言う。
「役割分担」
会議室を出るとき、朱里は少しだけ背筋が伸びていた。
噂は止まらない。
でも、自分の立ち位置は、まだ揺れていない。
(決めない選択は、逃げじゃない)
職場のざわめきの中で、
朱里は静かに、そこに立っていた。




