第167話 同じ夜へ向かう、それぞれの歩幅
◆朱里
目覚ましが鳴るより早く、目が覚めていた。
カーテン越しの光が、やけに白い。
(今日だ)
思っただけで、胸がきゅっと鳴る。
支度をしながら、何度も考える。
どんな顔をすればいいのか。
どんな言葉を返せばいいのか。
でも答えは出ない。
出ないまま、制服に袖を通す。
鏡の中の自分は、少しだけ大人びて見えた。
それが嬉しいのか、怖いのか、分からない。
出勤の電車の中。
スマホを何度も確認するけれど、通知は来ない。
(……仕事のあと、だもんね)
その“仕事のあと”までが、やけに長い。
◆嵩
朝から、ずっと落ち着かなかった。
コーヒーを淹れても、味が分からない。
昨日送ったメッセージ。
朱里からの返信は、簡潔で、逃げていなかった。
《分かりました。仕事終わりで、大丈夫です》
その一文が、胸に残り続けている。
(聞く覚悟を、ちゃんと持ってくれてる)
だからこそ、軽い言葉は使えない。
曖昧にもできない。
言うと決めた。
でも、どう言うかまでは、まだ定まらない。
職場で朱里とすれ違う。
目が合って、互いに小さく会釈する。
それだけ。
それだけなのに、昨日までとは違う緊張があった。
(……逃げるな)
自分に言い聞かせる。
◆朱里
昼休み、美鈴と並んで歩きながら、
何気ない話を装っていた。
「……今日、平田さんと話すことになって」
声が、少しだけ震える。
美鈴は立ち止まらずに言った。
「うん。来たね」
それだけ。
「怖い、って言っていいのかな」
「いいに決まってるでしょ。
むしろ、それ言わないで何言うの」
即答だった。
朱里は、少し笑ってしまう。
張りつめていたものが、ほんの少し緩む。
「……ありがとう」
「帰ってきたら、連絡しな。
泣いても、黙ってても、どっちでもいいから」
その言葉が、背中を押した。
◆嵩
定時が近づくにつれ、時計を見る回数が増える。
言う場所は決めてある。
人目が少なくて、でも逃げ場のないところ。
(ちゃんと向き合える場所)
朱里を呼び止めるタイミングを、何度もシミュレーションする。
「少し話せる?」
それだけで、十分なはずなのに。
胸の奥が、静かに重い。
(これを言ったら、何かが変わる)
良くも、悪くも。
元には戻らない。
でも──
戻らないことを、望んでいる自分がいる。
◆朱里
仕事を終え、席を立つ。
心臓が、さっきより早い。
バッグを持った瞬間、声がした。
「中谷さん」
振り返る。
平田嵩が、そこにいた。
いつもと同じ顔。
でも、その目は、少しだけ覚悟を帯びている。
「……行こうか」
その一言で、全部が始まる気がした。
朱里は、小さく頷く。
「……はい」
二人は並んで歩き出す。
まだ、何も言われていない。
まだ、何も聞いていない。
それでも──
同じ夜へ向かっていることだけは、確かだった。




