第166話 受け取った夜、引き返せなくなる
帰宅して、靴を脱いだ瞬間だった。
スマートフォンが、短く震えた。
コートを脱ぎかけたまま、朱里は立ち止まる。
画面を見る前から、なぜか分かってしまった。
──平田さんだ。
通知を開く。
明日、仕事のあと
少し話せないかな
静かなところで
それだけの文面なのに、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「……話す」
声に出してしまってから、慌てて口を閉じる。
部屋には誰もいないのに。
静かなところ。
仕事のあと。
少し、じゃない話。
全部、分かってしまう。
──来る。
避けてきたわけじゃない。
でも、ずっと心のどこかで“まだ先でいい”と
思っていた瞬間が、
はっきりした形になって、目の前に差し出された。
スマホを握る手が、少し震える。
断る理由なら、いくらでもある。
疲れている。
今日は気持ちの整理ができていない。
今は、聞く余裕がない。
でも──
「……聞かない方が、後悔する」
ぽつりと、独り言が落ちる。
嵩が、逃げずに言おうとしている。
それだけは、伝わってくる。
怖い。
聞いたら、戻れなくなるかもしれない。
聞かなかったら、もっと戻れなくなる。
朱里は、ベッドに腰を下ろし、深く息を吸った。
(聞くって決めた夜は、もう逃げられない)
親友の美鈴の顔が浮かぶ。
「覚悟って、完璧になってからするもんじゃないよ」
そんな声が、頭の中で再生される。
画面に、返信欄が光っている。
《はい。大丈夫です》
一度、打って消す。
《……少しなら》
また消す。
“少し”じゃない。
自分が欲しいのは、はっきりした言葉だ。
指先が止まり、しばらく考えてから、朱里は打った。
《分かりました。
仕事終わりで、大丈夫です》
送信。
既読がつく前に、スマホを伏せた。
心臓の音が、耳に近い。
鼓動が、決断を刻むみたいに強い。
──明日。
朱里は立ち上がり、窓のカーテンを少しだけ開けた。
夜の街は、何事もない顔で光っている。
「……聞くって決めたんだから」
怖くても、いい。
泣いても、いい。
それでも、黙っていない自分でいたい。
ベッドに横になり、目を閉じる。
けれど眠気は、なかなか来なかった。
明日の自分が、
どんな表情で、どんな言葉を受け取るのか──
まだ分からない。
それでも一つだけ、確かなことがある。
もう、引き返せない夜に、
ちゃんと足を踏み入れてしまった。




