第165話 どこで、どう言うか
部屋の灯りを落としたまま、嵩はベッドの端に腰掛けていた。
スーツを脱ぎ、ネクタイを外しても、胸の奥の重さだけが残っている。
──転勤。
通達を受けた瞬間から、この言葉は“事実”になった。
もう曖昧にはできない。
朱里に伝えなければならない。
けれど問題は、いつ、どこで、どう言うかだった。
職場は違う。
今日の空気を思い出すだけで分かる。
あの場所は、噂と視線が先に立つ。
LINEも違う。
文字にした瞬間、彼女の表情が見えなくなる。
誤解も、逃げ道も、そこにはいくらでも生まれてしまう。
電話も、違う。
声だけでは足りない。
沈黙の意味も、間の取り方も、朱里には伝わらない気がした。
嵩は、無意識にスマートフォンを握りしめていた。
画面には、何も表示されていない。
「……ちゃんと、向き合えよ」
誰にともなく呟く。
朱里の顔が浮かぶ。
怒った顔でも、泣いた顔でもない。
職場で見せた、あの“普通すぎる笑顔”。
あれが一番、怖かった。
──選択肢を奪う言い方だけは、したくない。
転勤を事実として押し付けるのではなく、
自分の気持ちと一緒に、彼女に渡したい。
「決まった」ではなく、
「決まろうとしている」でもなく。
「俺は、こう考えてる」
「でも、朱里の気持ちも、ちゃんと聞きたい」
言葉を頭の中で並べてみる。
けれど、どれも少しずつ足りない。
嵩は立ち上がり、窓を開けた。
夜風が、熱を帯びた思考を少し冷ましてくれる。
思い出したのは、以前、朱里と二人で行った小さな川沿いの道だった。
仕事帰り、たまたま同じ方向で。
特別な会話はしていない。
ただ、沈黙が苦しくなかった場所。
──あそこなら。
逃げ場がなくて、でも圧迫もしない。
立ち止まってもいいし、歩きながらでもいい。
嵩は、ようやくスマートフォンを操作した。
明日、仕事のあと
少し話せないかな
静かなところで
送信ボタンを押す指が、一瞬止まる。
──断られたら?
──避けられたら?
その不安を、強く飲み込んで、押した。
送信完了の表示を見つめながら、嵩は深く息を吐いた。
どう言うか。
どんな表情で。
どこまで正直に。
全部、まだ完璧じゃない。
それでも一つだけ、はっきりしている。
──逃げる言い方だけは、しない。
窓の外で、遠くを走る車の音がした。
時間は、確実に進んでいる。
嵩は、携帯を胸元に置き、静かに目を閉じた。
明日、言葉は選べなくなる。
その代わり、本音だけは置いていこう。
朱里の前に。




