第164話 まだ言葉にならない距離
瑠奈の一言が去ったあとも、フロアの空気は元に戻らなかった。
誰もが“聞いてしまったもの”を胸の奥にしまい
直すように、キーボードを叩く音だけが不自然に大きく響いている。
朱里は、画面を見つめたまま、指を動かしていた。
数字も文言も、頭には入ってこない。
それでも手だけは、いつも通りに動いてしまう。
──転勤。
はっきりした言葉は、まだ誰からも聞いていない。
けれど、嵩の背中が、今日はやけに遠く見えた。
昼過ぎ、コピー機の前で、朱里は美鈴と並んだ。
用紙をセットする手が、わずかに震えているのを、美鈴は見逃さなかった。
「……朱里」
名前を呼ばれて、朱里は小さく肩をすくめる。
「大丈夫です。仕事、溜まってるだけで」
美鈴は、それ以上踏み込まなかった。
今の朱里には、“優しさ”より“余白”が必要だと分かっていたから。
コピー機が低い音を立てて動く。
その間、朱里はぽつりと呟いた。
「聞いたら、何かが終わる気がして」
美鈴は、紙を受け取りながら、静かに答えた。
「聞かなきゃ、始まらないこともある」
朱里は、何も返さなかった。
ただ、コピー用紙を胸に抱え、深く息を吸った。
夕方。
嵩は、何度目か分からないため息をつき、スマートフォンを手に取った。
朱里にメッセージを送る文面は、打っては消し、消しては打ち直す。
──今夜、少し話せる?
それだけの一文が、どうしてこんなにも重い。
送信ボタンを押す直前、視界の端で朱里が立ち
上がるのが見えた。
バッグを手に、誰よりも早く帰り支度をしている。
「朱里」
思わず、声が出た。
振り返った彼女は、いつもの朱里だった。
笑顔も、声の調子も。
ただ、目の奥だけが、静かに揺れている。
「お先に失礼します」
それだけ言って、彼女はフロアを出ていった。
嵩は、その背中を追わなかった。
追えなかった。
“言う”と決めたはずなのに。
“今日”だと、心のどこかで思っていたはずなのに。
夜、部屋に戻った朱里は、灯りをつけずにソファに座った。
カーテン越しの街の光が、ぼんやりと部屋を照らす。
スマートフォンは、静かなままだ。
朱里は膝の上で手を組み、そっと目を閉じた。
──明日でもいい。
──でも、もう、逃げない。
そう心の中で決めた瞬間、胸の奥に、覚悟が静かに降りてきた。
言葉になる前の距離は、もう、限界だった。




