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大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。  作者: 菊池まりな


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第159話 言葉にする前、名前のない沈黙

木曜日の夕方。


定時を告げるチャイムが鳴っても、


朱里はすぐに席を立てなかった。


(……今日は、何も言われてない)


(でも、言われないまま終わる気がしない)


そんな予感だけが、胸の奥に居座っている。


パソコンを閉じ、立ち上がった瞬間。


「中谷さん」


呼ばれて、身体が強張る。


振り向くと、嵩が立っていた。


いつもより少しだけ距離が近い。


「……帰り、歩ける?」


「はい」


即答してしまった自分に、少し驚く。


エレベーターを降り、会社を出る。


夜に切り替わりきらない空が、妙に落ち着かない。


二人は、自然と並んで歩き出した。


話題は、他愛もないものだった。


「今日、会議長かったね」


「ですね……集中力、後半危なかったです」


「俺も」


笑う。


でも、どちらも“本題”を避けているのが分かる。


歩幅は揃っているのに、心は一歩ずれている。


しばらくして、嵩が足を止めた。


「……少し、いい?」


立ち止まる場所は、いつもの角。


帰り道の分岐点。


朱里の喉が鳴る。


「……はい」


嵩は、しばらく言葉を探すように空を見た。


街灯が、彼の横顔を照らす。


「中谷さん」


「はい」


「……もし、だよ」


前置きの“もし”が、重い。


「もし、近いうちに」


「俺の環境が変わるかもしれないって言ったら……どう思う?」


朱里の心臓が、大きく跳ねた。


(来た)


でも、逃げなかった。


「……具体的には、どんな、ですか?」


声は震えたけれど、途切れなかった。


嵩は、ほんの一瞬、目を閉じる。


「……まだ、正式じゃない」


「でも、かなり現実的な話」


言葉を選びながら、少しずつ核心に近づいていく。


「仕事として、断れない可能性が高い」


「場所も、期間も……簡単じゃない」


そこまで言って、口を閉じた。


“転勤”という単語だけが、言われないまま宙に浮く。


朱里は、分かっているのに、聞かされていない。


「……嵩さん」


名前を呼ぶ。


嵩が、朱里を見る。


その目に、迷いと覚悟が混ざっていた。


「全部、ちゃんと話します」

「でも……今日は、まだ言えない」


正直すぎる言葉だった。


「決めきれてないまま渡すのは、卑怯な気がして」


「中途半端な不安だけを、背負わせたくない」


朱里は、少し笑った。


「……それ、もう背負ってます」


「今の時点で」


嵩の肩が、わずかに揺れる。


「……ごめん」


「いいえ」


朱里は、深呼吸をした。


「でも……逃げないって決めたので」


「聞く準備は、してます」


その言葉に、嵩の表情が揺れた。


「ありがとう」


短い一言に、たくさん詰まっていた。


「……じゃあ」


「明日、ちゃんと話そう」


約束というより、決意。


「はい」


即答だった。


別れ際。


嵩が、ほんの少しだけ近づいて言った。


「今日は……これ以上、何も言わない」

「でも」

「気持ちは、変わってない」


朱里は、頷いた。


「……分かってます」


背を向けて歩き出す。


数歩進んで、振り返りたくなった。


でも振り返らなかった。


(明日、聞く)

(怖いけど、ちゃんと)


その夜、朱里のスマホが震える。


《明日、全部話します。 逃げないで、聞いてください》


画面を見つめて、朱里は小さく返した。


《逃げません》


“転勤”という言葉は、


まだ出ていない。


でももう、戻れないところまで来ていた。


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