第135話 金曜までの三日間が長すぎる
火曜日の朝。
朱里は、出社した瞬間から妙な疲労感を覚えていた。
(まだ一日も経ってないのに……)
デスクにバッグを置き、パソコンを立ち上げる。
いつもと同じオフィス、同じ空気。なのに、落ち着かない。
「おはようございます」
背後から聞こえた声に、思わず肩が跳ねた。
嵩だった。
「……おはよう」
声が、少しだけ硬くなる。
嵩はそれに気づいたのか気づいていないのか、いつも通りの距離感で席に着いた。
「昨日は、雨上がりだったな」
「……そうだね」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥がざわっとする。
(普通の会話、普通のはずなのに)
画面に視線を落としながら、朱里は自分に言い聞かせる。
(仕事中。切り替え、切り替え)
けれど──。
「朱里さん」
今度は別の声。
望月瑠奈が、すぐ横に立っていた。
「昨日、珍しく定時でしたよね」
柔らかい笑顔。
でも、その目は探るように細められている。
「……まあ、たまたま」
「へえ」
瑠奈は、嵩の方をちらりと見た。
「平田さんも、ですよね?」
空気が、一瞬止まる。
嵩は少しだけ間を置いて答えた。
「そうですね。珍しく」
それだけで済ませたのは、きっと配慮だ。
(ありがとう……)
朱里は内心でそう思ったが、同時に胸がちくりと痛む。
“配慮される関係”になってしまったことが、嬉しくもあり、怖くもある。
「そうなんだ」
瑠奈はにこりと笑い、何事もなかったように去っていった。
その背中を見送りながら、朱里は小さく息を吐く。
(やっぱり、気づかれてる)
午前中は、集中しようとすればするほど、時間が進まなかった。
キーボードを打つ音。
電話の呼び出し音。
コピー機の低い唸り。
すべてが、やけに鮮明だ。
(……金曜まで、長い)
昼休み。
朱里は一人で席を立ち、社外のコンビニへ向かった。
人混みを避けるように歩きながら、スマホを取り出す。
(連絡、来てないよね)
分かっているのに、画面を確認してしまう。
──通知なし。
(仕事中に来るわけないのに)
自嘲気味に笑い、ポケットにしまった、その瞬間。
メッセージが表示された。
『無理してない?』
嵩だった。
タイミングが良すぎて、思わず足を止める。
(……見てた?)
いや、そんなわけない。
朱里は一度深呼吸してから、短く返した。
『大丈夫
仕事してます』
すぐに返事は来なかった。
それなのに、心が勝手に待ってしまう。
数分後。
『ならよかった
金曜、無理なら言って』
その一文に、胸が締めつけられた。
(優しすぎるんだよ……)
朱里は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
──無理じゃない。
むしろ、行きたい。
でも、その気持ちを素直に認めてしまったら、もう戻れない気がした。
『大丈夫です
行きます』
送信。
それだけで、心拍数が上がる。
午後の仕事は、午前中よりさらに長く感じられた。
嵩と視線が合えば、すぐに逸らす。
逸らしたあとで、少し後悔する。
瑠奈の笑顔が、どこか意味深に見えてしまう。
(私、気にしすぎ)
そう思っても、感情は言うことを聞かない。
退勤時。
エレベーター前で、嵩と二人きりになった。
沈黙。
妙に重い。
「……金曜」
嵩が、ぽつりと言う。
「はい」
「雨、降らないといいな」
それだけ。
でも朱里は、少しだけ笑ってしまった。
「そうですね」
エレベーターが到着し、扉が開く。
(金曜まで、あと二日)
長すぎるはずなのに。
気づけば、指折り数えている自分がいた。




