第127話 "上司と部下"を越えるための、ひとつの約束
触れているだけの手が、こんなにも落ち着かないなんて。
私は、自分の鼓動が伝わってしまいそうで、指先に余計な力を入れないよう必死だった。
「……このまま、ずっと立ち話も変ですよね」
先に視線を外したのは、平田さんだった。
「ちょっとだけ、歩きませんか」
「……はい」
“ちょっとだけ”。
その言葉が、どこかお守りみたいで、胸が少し軽くなる。
二人並んで歩き出すと、さっきまで張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。
「中谷さん」
「はい」
「さっきの……“私も”の続き」
心臓が跳ねる。
「無理に聞かないって言いましたけど」
困ったように笑う。
「やっぱり、気になります」
「……ずるい」
小さく呟くと、平田さんは肩を揺らして笑った。
「ですよね」
少し間を置いて、私は深呼吸する。
逃げない、と決めた。
「……私」
声が、思ったより落ち着いていた。
「“大嫌い”って、何度も言ってきましたけど」
彼が、足を止める。
私も、立ち止まった。
「本当は」
ぎゅっと拳を握る。
「好きって言葉が、怖かっただけです」
街灯の下で、平田さんが真剣な顔で私を見ている。
「期待して、もし違ったらって思うのが、嫌で」
胸が、じくりと痛む。
「だから、誤魔化してました」
沈黙。
でも、不思議と怖くなかった。
「……ありがとうございます」
平田さんが、静かに言った。
「ちゃんと話してくれて」
「……いえ」
照れ隠しに視線を逸らす。
「で、ですね」
少しだけ、強がって言う。
「だからって、すぐどうこうって話じゃないですから」
「分かってます」
即答だった。
「俺も、同じ気持ちです」
意外で、思わず顔を上げる。
「急に距離を変えたら、逆に壊れそうですし」
優しい声。
「だから」
少し考えてから、続ける。
「ひとつ、約束しませんか」
「約束……?」
「はい」
平田さんは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「仕事中は、今まで通り」
うなずく。
「でも」
少しだけ、声が柔らぐ。
「仕事が終わったあとだけは」
目が合う。
「“上司と部下”じゃなくて、ちゃんと向き合う」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「……それって」
「焦らず、でも誤魔化さない、って約束です」
私は、少しだけ考えてから、口角を上げた。
「……ずるい提案ですね」
「よく言われます」
「嘘です」
思わず笑ってしまう。
その笑顔につられて、平田さんも笑った。
「……分かりました」
私は、小さくうなずく。
「その約束、守ってくださいね」
「もちろんです」
そして、少し照れたように付け足す。
「破ったら……怒ります?」
「怒ります」
即答すると、彼は目を丸くした。
「本気で」
「……それは、気をつけます」
二人の間に、くすっと笑いが落ちる。
まだ恋人じゃない。
でも、もうただの上司と部下でもない。
その曖昧な境界線が、今は心地よかった。
私は心の中で、そっと呟く。
(“大嫌い”って100回言わなくても)
(もう、とっくに気づいてる)
この気持ちは、間違いなく──。




