第118話 近づくほど、素直になれなくて
翌朝。
会社のエントランスで、瑠奈が平田さんと並んで歩いているのが見えた。
「おはようございます、先輩!」
私に気づいた瑠奈が、いつもより少しだけ明るい声で言う。
「おはよう……」
視線が自然と、平田さんへ向いてしまう。
「昨日はありがとうございました。映画の話、すごく楽しかったです」
「こちらこそ。あの作品、やっぱり好み分かれるよね」
二人は自然に笑い合っている。
(……昨日、私は逃げたのに)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
午前中の業務中。
瑠奈は珍しく、やたらと平田さんのデスクに足を運んでいた。
「この資料、ちょっと見ていただいてもいいですか?」
「うん、今見るよ」
「ありがとうございます!」
私はキーボードを叩きながら、何度もそのやり取りを横目で追ってしまう。
(いちいち気にするな、私……)
そう自分に言い聞かせても、集中できない。
ふと、デスクに小さな紙が滑り込んできた。
《昼、空いてたら一緒に行かない?》
平田さんの文字だった。
一瞬、指が止まる。
(……また、二人きり?)
昨日断ったばかりなのに。
私は迷った末、小さく返事を書いた。
《少しだけなら》
すぐに届いた返事。
《ありがとう。じゃあ、いつもの時間に》
胸が、勝手に高鳴る。
昼休み。
会社近くの小さな定食屋。
「最近、元気ないね」
料理が運ばれてくるなり、平田さんがそう言った。
「そう、見えますか?」
「うん。どこか、考え事してる顔」
図星すぎて、視線をそらした。
「別に……大したことじゃ」
「無理して笑わなくていいよ」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
(こんな優しさ、ずるい)
「……平田さんは、誰にでもそうなんですか?」
思わず、そんな言葉が口から出てしまった。
「え?」
「後輩にも、私にも。誰にでも優しくて」
「そうかな。朱里には、特別甘いかも」
さりげない一言に、呼吸が止まる。
「……」
「冗談」
そう笑われても、心臓はもう落ち着いてくれなかった。
午後、オフィスに戻ると、瑠奈がこちらを見ていた。
「先輩、お昼……平田さんとですよね?」
やっぱり、見られていた。
「偶然……時間が」
「そうですか」
瑠奈はにこっと笑ってから、少し前に踏み出す。
「私、今日も平田さんと少し話す約束してるんです」
挑戦的でもあり、報告のようでもある声。
「……そう」
「先輩、平田さんのこと、上司としてしか見てないって言ってましたよね」
胸が、ずきっとする。
「……今も、そうだよ」
嘘だった。
でも、正直には言えなかった。
「安心しました」
そう言った瑠奈の笑顔が、やけに胸に刺さった。
その日の帰り。
私は一人で駅へ向かっていた。
後ろから聞こえる二人分の足音。
振り向かなくても、分かってしまう。
並んで歩く瑠奈と平田さん。
楽しそうな笑い声が、夜の空気に溶けていく。
(……私、何してるんだろう)
「大嫌い」
小さくつぶやいたその言葉は、
誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
嫉妬なのか、後悔なのか、自己嫌悪なのか。
ただ一つだけ、はっきりしているのは──
私はもう、「何とも思ってない」ふりができなくなっていた。




