第95話 ケンちゃんという希望と絶望
タッタッタ!
苛立ちを隠しきれない足取りで、自分の城を闊歩する。
『はぁ……クソッ。まさか魔王があんな映像まで撮っていたなんて!純粋無垢なオスを洗脳し、心にもない言葉を言わせるなど断じて許せない!』
今回の会合では、前任者の男を引き合いに出し、魔族がいかにオスの扱いに不慣れかを論じることで返還を求めるはずだった。
だが、突如として流されたケンちゃんのNTR映像。
そのあまりにも生々しく残酷な内容に家臣を含めた全員の心を深くえぐり、誰一人立ち上がれぬままあえなく撃沈してしまった。
『う……思い出しただけでも吐きそうだ』
そもそも、男と交尾したらもう一度会うことが難しい我々にとって、NTR物は禁忌中の禁忌。
交尾本においても、【「純愛」と銘打ちながら最後に別の女に奪われる――そんな展開を書いた者は問答無用で死刑!】と法典に明記されている。
もし、自分より次の交尾する女の方が上手かったら……
30年後にプロポーズした時には、すでに他の女に嫁いでいたら………
交尾した男の心理を妄想するしかない状況で、そんな可能性を突きつけられれば誰だって正気でいられなくなる。
だからもしあのケンちゃんの映像が流出でもしたら、国民全員が発狂し、精神科は満員御礼。街のあちこちで嘔吐と失神が相次ぐことだろう。
【人間族の体とか貧相で無理w魔族の体のほうが大きくてス♡テ♡キ】
『がはっ!』
きっとあれはただの証拠提示ではない。
魔王は明確に脅してきたのだ。下手な真似をすれば、この地獄を国中で見ることになるぞ……と。
相変わらずやり方が汚い。お母様が言っていた通りだ。
『だが、だからといって……男が希少な今、あれほど食べごろの男を“なかったこと”にするなんて論外だ!』
会合中にそう思った私は、床に散らばった資料を掻き集め、吐き気をこらえながらも魔王に訴えかけた……が。
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「ケンちゃんを引き渡すのは無理だ……ケンちゃんは今や魔界中にその名を知られるオス。それが人間族の手に渡ったとあっては、魔王軍への信頼は地に落ちる」
『そ、そんなの、露呈する前に他のオスで誤魔化せば……』
「そんなことをしたところで意味はない。ケンちゃん中毒になった全種族が人間族に押し寄せ人間族を蹂躙しするだけ。きっと貴様の城なんて一瞬で更地になるだろうな」
『…………』
「というわけで諦めるがいい。ケンちゃんはもはや魔界そのもの。そこに居なくてはならない存在だ……わかるであろう?」
そう言い残して帰る魔王を、私は引き止められなかった。
あの表情は本気だった。
次にケンちゃんのことを口にすれば、私の首が飛ぶのは間違いない。そう確信できるほどの威圧感がそこにはあった。
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『く、せめてオスがもう少しいればケンちゃんがいなくても……』
いや、やめよう。ないものねだりほど滑稽なものはないのだから。
王である以上、手にある限られた資源で国民を導くのが責務。
貴重な時間は現状を打破するために使えと、幼い頃から教え込まれてきたじゃないか。
『だが今日はもう休もう。家臣たちも皆、純愛交尾本で脳を再生しているようだし私も―――』
「エリス様!」
自室の扉に手をかけようとしたとき、片腕に包帯を巻いた若い女性に呼び止められる。
『セレナか。こんな時間にどうした?』
セレナは我が城で魔法の研究を担う重要人物。
主に古代の魔法を研究対象としており、その卓越した頭脳は歴代の研究者たちの中でも随一と評されている。
数年前からは我が命を受け、魔法を応用した方法でどうにかオス不足を改善できないか模索してもらっている。
「夜分遅くに申し訳ございません。ケンちゃんについて、どうしてもお尋ねしたいことがありまして……少しお時間をいただけますでしょうか?」
『うむ、許そう。ほんのわずかなら付き合ってやる』
「ありがとうございます……」
深々と頭を垂れるセレナ。律儀なのはいいが、こちらとしては些末な所作に時間を割かれるのは煩わしい。
我は少しでも早くオスとイチャイチャ交尾本が読みたいのだ!
「魔族に誘拐されているケンちゃんという男の首には、何か傷跡のようなものがありませんでしたか?」
『首に傷……いや、そこまでは確かめられてない。それどころではなかったからな』
「そうなのですね……」
『だが待て。“ケンちゃんぬいぐるみ”なる品を受け取っている』
包みの中から一体の人形を取り出す。
それは男の姿を象ったもので、丸みを帯びた顔つきと小さな体は実に可愛らしい。
実在するオスを模した人形など、国宝に指定されてもおかしくないほど希少な逸品であり、こうして手元にあるだけで心をざわつかせる。
だがしかし、のモチーフとなった本人が魔族の手に堕ち、洗脳され、慰みものとして無惨に交わりを強いられていると現実を考えると胸の奥が締め付けられる。
クソ!私にNTR耐性がもっとあったら今頃は!
「では拝借いたします……ふむ。首の後ろには特に目立つ傷は見受けられませんね。残念です」
『確か、首の傷がマーキングを示す印だったか?』
「はい……とはいえ、あくまで私の妹が関与している個体の場合に限った話ですが」
『妹か……』
セレナの妹のセレスは、5年前に行った魔法実験の事故で行方不明になっている。セレナの腕に巻かれた包帯も、その時の傷が原因だ。
曰く、セレスが生きている可能性は十分にあるらしいが、説明を受ける限りでほとんど望みはないだろう。
せいぜい骨を拾えたら儲けもの……そんな絶望的な状況だ。
「実物のケンちゃんには傷があればよいのですが……」
『そうだな……』
だから正直、その妹が印として刻むという首の傷が存在する可能性は限りなく低い。
仮に傷があったとしても、原因はまったく別のものだろう。
『それよりもセレナ。最近の実験は思うように成果が出ていないらしいな。半年ほど前なんて、多くの魔術師を動員しておきながら何も出現しなかったという報告を受けているぞ』
数年前から熱心に研究している、オスが出てくる門を開いてみれば──出てくるのは交尾など到底不可能と思われる魔族もどきばかり。
門を維持するのにも膨大なリソースが必要で馬鹿にならないのだから、そろそろ1人くらい成功して欲しいものだ。
「いえ、確かに半年前の実験では何も現れませんでしたが、途中まで反応自体はありました。少しずつ成功には近づいているのです」
『そうはいってもな……』
魔王軍からオスを引き換えに大量の資源を受け取っているとはいえ、このままでは10年後には資源が枯渇しするのは目に見えている。
もはや切羽詰まった危機的状態だと言っても過言ではない。やりたくはないが、また大幅な間引きが必要かもな。
「オスを釣り上げるための針は既に投下してあります。あと少し!あと少しすれば必ず結果を出しますので、どうか今しばらくお待ちください!」
深々と頭を下げて土下座するセレナ。その姿からは、焦燥と必死さが滲み出ていた。
『はぁ……まぁいい。今ここで簡単にする話しではなかったな。とりあえず、ケンちゃんについては今魔界にいるスパイに救助させるから安心しろ』
「どうか早急な救助をお願いします。あの子が呪いによって命を失う前に」
『はいはい、わかっておる』
ガチャッ。
地面に頭をこすりつけるセレナを無視して、私はやっとの思いで自室のドアを開ける。
長く張り詰めていた緊張と重圧がようやく解け、肩の力がすっと抜けた。
『まったく、どうにもままならん……交尾本よも』




