表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/39

借り物の記憶

――この方向へ進めば、人間の集落があった筈……!


 「捕食」した人間の男「コンラート」の記憶を頼りに、「彼」は赤ん坊を抱いて、ひたすら荒れ地を走った。

 「彼」の身体は疲れを知らず、その足が止まることはない。

 だが、腕の中の赤ん坊が声もあげなくなり、ぐったりとしてきているのに気付き、「彼」は体内が搔きむしられるような感覚を覚えた。


――これは……「焦り」というものなのか。処置が遅れれば、この赤ん坊は死ぬ……そう考えただけで、居ても立ってもいられない……一刻も早く、人間のいるところに辿り着かなければ……!


 やがて、遠くに人家の屋根が幾つか見えてきた。

 おそらく、目指す集落だろう――「彼」は、更に足の動きを速めた。

 畑と家々が交互に並んでいる集落に飛び込み、「彼」は住民の姿を探した。


「あんた、この集落の者じゃあないな。どこから来たんだ」


 近くの畑で作業をしていた農夫らしい中年男が、「彼」に声をかけてきた。

 小さな集落のため、余所者は一目で分かってしまうらしい。

 (いぶか)しむような目を向けてくる農夫に、「彼」は尋ねた。


「赤ん坊が飢えている。母乳を与えられそうな女を知らないか」


 「彼」の言葉に、農夫は目を白黒させた。


「あ、赤ん坊?」


 農夫は、「彼」の腕に抱かれている赤ん坊を見て、冗談を言われている訳ではないと悟ったようだ。


「そいつは大変だな……ああ、この道を真っすぐ行ったところの突き当りの家に、最近子供を産んだ人がいるから、聞いてみちゃどうだ?」

「ありがとう、了解した!」


 「彼」は農夫の言葉が終わるか終わらないかのうちに再び走り出した。

 ごく自然に感謝の言葉が出たのは、コンラートの記憶によるものだろう。

 はたして、集落を貫くように伸びていた道の突き当りには、農夫の言った通り、一軒の大きな家があった。周囲には広い畑が広がり、家畜小屋らしきものも建っている。

 家を囲むように設けられた、人の背丈ほどの柵を軽々と飛び越え、彼は庭に降り立った。

 その姿に、庭にいた住人らしき男が驚きの声をあげた。


「な、なんだ、お前は?!」

「あ、怪しい者ではない」


 「彼」は慌てて言ったものの、男は眉を吊り上げるばかりだった。


「ふざけるなッ! 無断で人の家の庭に飛び込んできやがって、どこから見ても怪しいじゃねぇか! 強盗か?」


 男の怒鳴り声を聞いたのか、更に、二人の男が(くわ)や大きな熊手といった農具を手にして駆けつけた。


「兄貴、大丈夫か」

「気を付けろ、こいつ、剣を下げてるぞ」


 口々に言う男たちの顔立ちは似通っており、血縁関係にあるのが見て取れる。年の頃は三人とも二十代というところと思われた。


「待ってくれ、危害を加えるつもりはない。赤ん坊に『母乳』を与えたいだけだ。この家に、子供を産んだ人がいると聞いて……」


 農具を突き付けられながら、「彼」が必死で説明していると、不意に玄関の扉が開いた。

 そこから現れたのは、四十代後半から五十代と思われる、ややふくよかな一人の女だった。


「母ちゃん、家に入ってろ! 強盗だ!」


 男たちの一人が言った。女は、どうやら彼らの母親らしい。

 女は息子たちの言葉に動じる様子もなく、「彼」と赤ん坊を頭の天辺(てっぺん)から爪先まで眺め回した。


「……赤ん坊が、腹を減らしているんだって?」


 女の問いかけに、「彼」は何度も頷いた。


「長男と次男の嫁が、まだ赤ん坊に乳をやってるけど、二人とも()が良くて余るくらいだ。その子にも、飲ませてやるように言ってやるよ」


 「彼」に向かって手招きする女に、息子たちが抗議の声を上げた。


「何言ってるんだ母ちゃん、こんな怪しい奴を家に入れる……まして嫁たちに近付けるなんて……」

「何言ってるんだは、あんたたちのほうだよ。強盗が、そんな赤ん坊を連れてくるもんか。見な、すっかり元気がなくなってるよ。ぐずぐずしてたら取り返しのつかないことになっちまう」


 母親の言葉に、息子たちは不満が残る様子を見せつつも、手にしていた農具を引っ込めた。


「あたしはカイサ。そっちの三馬鹿は息子たちさ。あんたの名も、聞いておこうか」


 女――カイサに問われ、「彼」は、たまゆら戸惑った。


――コンラート……は、自分が「捕食」した人間の名だ。別の名を名乗っておいたほうがいいだろう。


「……ロデリックだ」


 「彼」は、コンラートの記憶の中から適当な名を選んで名乗った。


「じゃあ、ロデリック、入ってきな。そうそう、あんたたちは、湯を沸かしときな」


 息子たちに指示を飛ばすと、カイサは「彼」――ロデリックに家に入るよう促した。

 通された居間らしき部屋は、質素だが整頓されており、住人たちの人となりを(うかが)わせる。

 ロデリックが赤ん坊を抱いて椅子に座っていると、カイサが二人の若い女を連れてきた。


「うちの嫁たちだよ」


「それじゃあ、最初は私が」


 嫁だという女たちの片方が、ロデリックに近付いて、赤ん坊を受け取ろうと両手を広げた。

 ロデリックは、おそるおそる赤ん坊を女に渡した。ずっと抱いていた赤ん坊が自分の手から離れる時、彼は体内に隙間ができたような感覚を覚えた。


――これは……寂しい、というのか?


 戸惑うロデリックをよそに、赤ん坊を受け取った女は椅子に座り、乳を含ませた。

 赤ん坊は目の前にある乳房に気付くと、先刻までの元気のなさが嘘のように、勢いよく吸い付いた。

 

「よほど、お腹が空いていたんだね、かわいそうに。首は据わっているから、生まれて三か月以上にはなってるね」


 夢中で乳を飲む赤ん坊を見て、カイサが頷いている。

 ひとしきり乳を飲むと、赤ん坊は満足した様子を見せた。


「それじゃあ、ゲップをさせないとね」


 乳を飲ませ終えた女は、赤ん坊を自分に寄りかからせるように抱いて、その背中を軽く何度か叩いた。


――そうか、赤ん坊は乳と一緒に空気を呑んでしまうから、ああして排気させる必要があるのだったな。


 ロデリックは、コンラートの記憶にも同じ光景があるのに気付き、納得した。


「身体も汚れてるし、おむつも限界だね。湯も沸いた頃だし、きれいにしてやろうかね」


 赤ん坊が排気したのを確認すると、カイサが言った。


「何から何まで、すみません」


 見ず知らずの自分たちへ親切にしてくれる一家に対し、ロデリックの中には、申し訳なさと感謝の念が湧いた。それは、やはりコンラートの記憶から生まれたものなのか、それとも自身のものであるのかは、ロデリックにとって判別できないものだった。

 

 カイサと嫁たちは赤ん坊を沐浴させると言って風呂場に連れて行った。

 しばらく経って、湯で身体を清められ、おむつも交換された赤ん坊が、洗いたての布に包まれて戻ってきた。

 すっかり顔色の良くなった赤ん坊は、腹が満たされ身体も清潔になったことで安心したのか、(なか)微睡(まどろ)んでいるようだ。


「はい、お父さんですよ」


 言って、嫁の一人がロデリックに赤ん坊を手渡した。

 その重さと温もりが自分の手の中に戻り、ロデリックは安堵する気持ちを抱いた。赤ん坊特有の、乳臭(ちちくさ)く甘い匂いが、彼の中に温かなものが満たされるような感覚を呼び起こした。


――お父さん、か。髪と瞳の色を合わせたのは正解だったようだな。自分と、この赤ん坊が親子だと思っているからこそ、カイサたちも怪しまないのだろうな。


 もはや、ロデリックの中に、赤ん坊を放置したり、まして殺害しようなどという考えは欠片(かけら)もなかった。


「この子、大きくなったら美人になりそうね。そうだ、名前は何ていうの?」


 そう言われて、ロデリックは、この時まで赤ん坊の素性どころか性別すら把握していなかったことに気付いた。


――女の子なら、それらしい名を付けなければ。


「……アンネリーゼ、だ」


 ロデリックは、再びコンラートの記憶の中から浮かんだ名を答えた。

 それは、どこか懐かしく、そして胸の奥が締めつけられる感覚を呼び起こすものだった。


「あの、この子のお母さんは?」

「……流行り病で亡くなった」


 女たちの問いに淀みなく答えながら、これもコンラートの記憶だと、ロデリックは思った。

 コンラートには妻子がいたが、彼が仕事に出ている間に流行り病で二人とも亡くなってしまった――そして、アンネリーゼというのは、亡くなった娘の名だったのだ。


――だから、赤ん坊を殺せと命じられても、コンラートは即座に実行できなかったのだろうか。


 「捕食」した相手の記憶によって浸食される感覚に、ロデリックは軽い混乱を覚えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ