萌芽
アンネリーゼがティエト学院の幼年科に入学すると同時に寄宿舎に入った為、ロデリックは職員用宿舎での一人暮らしを余儀なくされた。
家族用の物件は、ロデリック一人だけの生活には広すぎたものの、いつ娘が戻ってもいいように、彼は常に室内を整えていた。
素直で優しいアンネリーゼは、同級生にも好かれ、上級生には可愛がられているようで、寄宿舎や教室でも快適に過ごしているらしい。
それでも、やはり最も安心できるのはロデリックの傍であると、休日は外出許可を取って自宅で過ごしたり、父と共に街へ出かけたりするのが、アンネリーゼの習慣になった。
学業面でもアンネリーゼは頭角を現し、通常は十二歳で卒業する幼年科を、飛び級して十歳で卒業することができた。
いよいよ念願の魔法科へ進めると、アンネリーゼは喜んだが、ロデリックもまた、それが自分のことのように嬉しかった。
アンネリーゼが魔法科に進んでから、更に二年の月日が過ぎた。
この日は授業のない休日で、ロデリックとアンネリーゼは連れ立って街を歩いていた。
きちんと敷かれた石畳の道は、休日である為か普段よりも人通りが多い。
様々な店が整然と並んだ商店街では、人々が買い物や散策を楽しんでいる。
十二歳になったアンネリーゼは、可愛いというより美しいという言葉が似合う容姿に成長しており、道行く者たちに注目されることも少なくない。
また、ロデリックは「捕食」した時点の「コンラート」と同じ外見ということもあって、現在のアンネリーゼと並ぶと、親子というより歳の離れた兄妹に見えなくもなくなってきている。
――今はまだ、実年齢より多少若く見えるという程度で誤魔化せるかもしれない。「本物の人間」でも、それくらいの者はいるからな。しかし、あと十年、二十年と経ったら分からない……少しずつ歳を取った姿に見えるよう、「変身」の仕方を研究する必要があるかもしれない……
通りすがりの店舗の硝子戸に映る自身の姿を見て、ロデリックは思った。
「お父さん、そのお店、気になるの?」
アンネリーゼの声で、ロデリックは思考の世界から呼び戻された。
「男の人の服のお店ね。お父さん、いつも地味な感じだけど、たまにはお洒落してもいいんじゃない?」
「いや、俺は、これで十分だ」
「……そうね、お父さんが、あまり格好よくなっちゃうと、女の人が寄ってきちゃうもんね。私の友達も、みんな、お父さんのことを格好いいって言ってるのよ」
「それは参ったな」
内心では、どう反応していいか分からず、ロデリックは曖昧に笑った。
「コンラート」の記憶により、「人間の男」が異性から好意を向けられた際に、どういう気持ちになるか、どう対処するのかといった「知識」は得ている。しかし、それを自分のものとして感じる時は来ないだろうと、彼は思っていた。
――そもそも、自分は「男」の姿をしているだけで、本来は「性別」などないからな……
「でも、もし、お父さんに好きな人ができたら、私に遠慮しないでね」
「はは、それは無いよ。俺が大事に思っているのはアンネリーゼだけだ」
ロデリックの言葉に、アンネリーゼは少し安心したような表情を見せた。
「ところで、アンネリーゼのほうこそ、新しい服でも買おうか? お前が成績最優秀者ということで学費免除になったから、うちの経済状況は、かなり余裕が出ているし、何でも好きなものを選んでいいぞ」
「じゃあ、今度のお休みに友達と出かける計画を立ててるから、その時に着る服を買ってもらおうかな」
「ほう、友達と? いいじゃないか。早速、服屋に行こう」
「あと、新しい本が欲しいんだけど……」
「いいとも、荷物持ちは任せろ。本は数が増えると結構重いからな」
二人は、たっぷりと時間をかけ、服屋と書店を巡った。
「だいぶ歩いたから疲れただろう、そこの広場で休もうか」
ロデリックは、アンネリーゼに声をかけ、街の中に設けられている広場へ向かった。
噴水や休憩用の日除け付きベンチが設置された広場では、駆け回る子供たちや、幾つか出ている露店で買い食いする者などが、思い思いに過ごしている。
「飲み物を買ってくるから、お前はベンチで荷物を見ていてくれ。何が欲しい?」
「それじゃあね、冷たい葡萄のジュースにしようかな」
「了解だ」
アンネリーゼをベンチで休ませ、ロデリックは、飲み物を買いに少し離れた露店へ向かった。
夏が近づき日差しも強くなってきた所為か、冷たい飲み物は人気があるらしく、露店には行列ができている。
ややあって、何とか無事に飲み物を購入したロデリックは、アンネリーゼの元へ戻ろうとした。
アンネリーゼが待っている筈のベンチに目をやって、ロデリックは異変に気付いた。
ベンチの周囲には人が集まっており、何やら騒ぎになっている模様だ。
ロデリックは、慌ててベンチの方向へ走り、野次馬たちを弾き飛ばすように割って入った。
「アンネリーゼ!」
「あ、お父さん!」
ロデリックの呼びかけに、アンネリーゼが手を振って応えた。
彼は、急いでアンネリーゼに駆け寄り、彼女に異常が無いか確認した。
「何か、あったのか?」
「うん、ちょっとね。でも、私は大丈夫よ」
アンネリーゼの無事を確認したロデリックは、一瞬安堵したものの、娘の傍に一人の少年が佇んでいるのを見て取った。
黄金色の髪に映える、少年の青い目が、少し驚いたようにロデリックを見た。十四、五歳といったところだろうか。きりりと整った顔立ちが、生真面目そうな印象だ。
「お前、アンネリーゼに何かしたのか?」
言ってから、ロデリックは自分が両手に飲み物のカップを握りしめたままなのを思い出し、それらを素早くベンチに置いて、少年の顔を見据えた。
少年はロデリックの剣幕に気圧されたのか、何か言いたげだったが、言葉が出ない様子だった。
「違うの、その人は私を助けてくれたの」
アンネリーゼが、慌てた様子で口を挟んだ。
「あの人たちに絡まれて困っていたら、その人が庇ってくれたのよ」
彼女が指差した先には、柄の悪そうな若い男が二人、石畳の地面に伸びている。
そこへ、誰かが呼んだのか、二人の警備兵がやってきた。
彼らが周囲の者たちから事情を聞いたところ、ロデリックが不在の間に何が起きていたのかが明らかになった。
一人でベンチに座っていたアンネリーゼは、二人の柄の悪そうな男たちに、遊ぼうと声をかけられたが、連れがいるからと断った。それにも関わらず、男たちが無理矢理彼女を連れて行こうとしているのを見かねて、黄金色の髪の少年が止めに入ったという。
「あいつら、彼女の腕を掴んで引っ張っていこうとしていたから、まずいと思って」
シャルルと名乗った黄金色の髪の少年が、ぼそぼそと話すのを見て、ロデリックは彼に対して少し申し訳ない気持ちになった。
「凄かったのよ。この人、自分より大きな人たちが殴りかかってきても、落ち着いて次々に投げ飛ばしてね、格好よかったの」
目を輝かせながらアンネリーゼが言うと、シャルルは、顔を赤らめた。
柄の悪い男たちは警備兵に連行され、集まっていた野次馬も事態が収束したと見ると散っていった。
それらと入れ替わりに近付いてくる人影があった。
一早く、その気配に気づいたロデリックは、もう一人の少年の姿を認めた。
シャルルに比べると優しげな顔立ちだが、黄金色の髪と青い目が、彼との血縁を感じさせる。
「探したぞ、シャルル。何をしているんだ。目立つことをするなと言っただろう」
後から現れた黄金色の髪の少年が言った。十六、七歳と思われるが、年齢に比して落ち着きを感じさせる口調だ。
「すまない、兄上。女の子が絡まれていたから、放っておけなくて」
どうやら、二人は兄弟らしい。シャルルは、兄の言葉に首を竦めている。
「弟さんが、うちの娘を助けてくれたそうで。何か、お礼をしたいのだが……」
「いえ、これから用事がありますので、お気持ちだけで結構です。行くぞ、シャルル」
ロデリックの申し出を丁重に断ると、兄は弟を引っ張るようにして去っていった。
立ち去る間際、彼らが一言二言話していた言葉を聞いて、ロデリックは違和感を覚えた。
早口だった為に内容までは聞き取れなかったものの、「コンラート」の記憶によって、この大陸の多くの地域で使われている「共通語」ではなく、オーロール王国辺りで使われている言葉だということが分かった。
――オーロール王国は、フォルトゥナ帝国の侵攻に遭い、王家は潰されて併合状態にされている筈。あの兄弟は、身なりもきちんとしていたし富裕層だな。国外へ移住する余裕があったということか。
ふとロデリックは、傍らのアンネリーゼに目をやった。
彼女は、頬を赤らめて兄弟の背中を見送っている。
「あのシャルルって人、お父さんに少し感じが似てたね」
「そうか?」
アンネリーゼの言葉に、ロデリックは首を傾げた。
「うん、きりっとしてるし、強いし……また、会えるかな」
「さあ、どうかな。今日は、もう疲れただろう。家に帰って休むか」
「そうね。買ってもらった本も読みたいし」
ロデリックは荷物を持つと、娘と共に家路についた。