忘れてないよ、妖怪さん
真っ黒で先の尖った尻尾を立て、目は開かず、赤い口だけが見えるあなたはまるで、小さな妖怪でした。
下校途中、毎日通る道の前。
草むらから突然飛び出して来た黒いばかりの動くもの。
この妖怪はピーキャー鳴きながら足元へとやって来て、私のスニーカーを引っ掻きました。
「なに、こいつ……」
私は見慣れないこの妖怪が何をしようとしてるのだろうかと、少し興味が湧きました。
されるがまま放っておくと、ジーパンをよじ登ろうとしてはすべり落ち、懸命にすがっているように見えたのです。
その為に、この小さな妖怪を振り解く気にはなりませんでした。
私は何も気にせずに、地べたにランドセルをおろし、潰れた給食のパンを取り出します。
「きっと、お腹空いてるんだろうね」
ひとかけらを千切り、赤い口元に持っていきました。
「……いたい!」
この時ハムスターに初めて噛まれた時に知った痛みが呼び起こされました。
妖怪はパンと共に私の指ごと齧ったのです。
けれども痛みより、そんなにもお腹を空かせていたんだろうと、ただ可哀想な気持ちになりました。
「ーー痛いんだから」
そんな私の言葉を理解した訳ではなくとも、真っ黒な妖怪の牙が刺さったのは一瞬で、パンを飲み込むと今度は私の指をちゅっちゅと吸い始めました。
「……おまえ、お母さんはどこに行ったの?」
「はぐれちゃったの?」
「おまえ、かわいいね」
私は返事もせず懸命に指を吸う妖怪に愛着が湧いてしまいました。
この妖怪をどうにかして家に持ち帰れないかと思い始めたのです。
けれどもこの妖怪は目が開かない代わりによく鳴くようでした。
こんなに鳴いたら、すぐにバレてしまう。
こっそり自分の部屋に入れたって、ごはんはどうしよう。
終始、考えあぐねましたが気まぐれで持ち帰るには、あまりにも大きな存在だと感じました。
「ごめんね」
「ごめん」
「ごめんね、パン全部あげるから……」
この時、せめて残ったパンを置いて帰ろう、これが私に出来る精一杯の事だと思ったのです。
置いて帰る決心の為に何度も謝ったのです。
パンを小綺麗そうに見える葉っぱの上に置いて、私はゆっくりと立ち上がり、後退りするようにその場を離れて行きます。
けれども、妖怪はパンよりも私の後を追いかけようとしているのか、道路の方へピョンピョンと跳ねていったのです。
私は自分を追いかけて来てくれているんじゃないかという期待よりも、心がざわつき嫌な予感に駆られました。
「ねぇ、パンはそっちじゃないよ!」
「草むらの方に戻って!」
このままではきっと、この妖怪はいつか轢かれて死んでしまう、でも妖怪を持ち帰ったら怒られるかもしれない、隠す事も出来ない、でも死んじゃう、怒られたくないのにどうしたらいいの?と、一気に想像した私は涙目になったのです。
「戻ってってば、ねぇ」
「ねぇ」
「やだ、ねぇ……」
グズりながら私はこの妖怪に一生懸命声を掛けました。
けれども目が開かない代わりに耳を頼りにして、妖怪はピーキャー音を出すだけです。
私は道路をウロウロしながら大きな声で鳴くその妖怪の後ろ首を掴んで、着ていたパーカーのお腹のポケットに入れてしまいました。
なんだかとても悪い事をしているような気がしたのと、時折刺さる爪がお腹にチクチクとして、とにかく私を嫌な気持ちにさせたのです。
それ以降、何も考えずに一心に家へと足を進めました。
しかしながら、家の前の道までさっさと歩けていたのに家が見えると突然足取りが重くなりました。
カタツムリのようにゆっくりゆっくりと歩いても、いつかは家に着いてしまうのです。
そして、玄関の前で途方にくれました。
パーカーのポケットの中の妖怪は不気味な振動を立てているだけ。
「どうしよう……」
私は独り言を呟きます。
どうしたらいいのか、誰かに教えて欲しかった。
玄関を開けることが出来ずに立ち尽くすのを止め、ドアの前の石段に座り込んで、答えを待ち続けていたら唐突にドアが開いたのです。
「ーーあんた、なにやってんの?」
怪訝そうに祖母が座り込んでいる私の顔を覗き込みました。
私が口籠もっていたその時です。
「ピャー……」
さっきまで振動していただけの妖怪が突然声を出し、祖母の目が驚きで丸くなる様子を見て私は全てを諦めたような気持ちになりました。
「ごめんなさい」
ポツリと出た言葉。
ポケットに爪をかけている黒い妖怪を引き剥がし、石段に置くと私は走って逃げました。
家に帰らずどうするのか。
私はかけっこの事を想像しながら本気で走っていました。
途中から息切れと涙も混ざって、私が顔をぐちゃぐちゃにしながらたどり着いたところは妖怪に出逢った草むらでした。
そこにはひとかけらむしり取られたパンが寂しげに置き去りにされていて、なんだか一層泣けてきたのです。
こんな想いをするなら、妖怪になんか構わなければよかった。
妖怪のことで怒られちゃう。
私の代わりに家に置いてくれないか。
これからどうしよう。
お腹すいた。
悲しい想像ばかりをして泣き腫らし、とうとう泣けなくなる時がきました。
そして考える事に飽きてしまえば、家に帰る事だけが目的となるのです。
私は改めて決意しました。
けれども足取りは重く、常にのろのろと。
途中立ち止まっては、ぐっと喉が痛くなる感覚が走り、また泣いてはの繰り返しで家に着く頃にはまた、私の顔はぐちゃぐちゃになっていました。
けれども今度はすんなりドアを開ける事が出来て、その音にパタパタと『おばあちゃん』がやってきたんです。
「心配したべや、なんでいなくなったのよぉ」
思いがけない優しい言葉の瞬間に、私はわんわん泣きました。
外で堪えて泣いていたのとは訳が違います。
この時には拾った妖怪のことをすっかり忘れていました。
「今お母さんがね、猫、病院に連れてったからね」
だからその言葉を聞いて、私はハッとした訳です。
「あれ、ねこ、妖怪……」
「落ちてた……」
「それで……」
「そんでね……」
「そうなのね、大変だったんだね」
しゃくりあげながら、出来る限り一生懸命に説明しました。
その一言一言に祖母は頷いて背中をさすってくれたのです。
言葉になったのは最初だけで、わたしはひっくひっくと、息苦しさに耐えるばかりでした。
かすかに見えるおばあちゃんの顔は眉毛をへの字にしてとても可哀想な様子で、私の流れる涙をティッシュで吹くついでに鼻までかがせてくれたんです。
「何がそんなに悲しいのよ、泣くことないからね、大丈夫だかんね、ね」
「大丈夫よ、ね」
「ね、大丈夫だかんね、」
『ね、』
『ね、ね……』
祖母の『ね、ね、』という言葉が児玉していて、気付くと私はいつの間にか自室の布団にいました。
時計の針はいつもは寝ている時間の9時をさしている。
けれども目は冴えていて、頭もすっきりしていた私は夢ではない妖怪のことをすぐに思い出す事が出来たのです。
辺りを見回してもその姿はありません。
足音を立てないように少しばかり気を使いながら二階から一階に降りていく途中、テレビを観ている母の姿がありました。
そのまま、くるりと周囲の様子を伺うと穴の空いた段ボール箱。
昔飼っていたウサギの柵。
背伸びをして覗いてみても、その中に妖怪はいません。
「ご飯食べちゃいなさい」
母は私に気付いていたようで、テレビの方を見たまま声をかけてきました。
「お母さん、黒いのは……」
「いいから、ご飯食べちゃいなさい」
「妖怪は……」
「ご飯食べなさい」
「……」
仕方なく私はのそのそと席に着き、お皿のラップを外してお箸を持ちます。
それと同時によそられたご飯が置かれたので、恐る恐る母の顔を見るとなんだか機嫌が良さそうで私はホッとしました。
ご飯を食べ終えて普段はしない片付けを自分で済ませ、台所から戻ると目をうっすらと開けた黒い妖怪が跳ねている姿が。
はっはっと呼吸困難のような、言葉にならない歓喜が湧き起こり、すかさず手を出すと妖怪はシャッと引っ掻いてきたんです。
「ーーいたい!」
私は一瞬ムッとしましたが、肌が少し白っぽくなっただけで、持ち帰る時にお腹に刺さっていた鋭利な爪でなくなっている事に気がつきました。
これは恐れるに足らずと、私は再び妖怪を触るべく腹回りをむんずと掴みあげ、くまなく様子を確かめます。
「○○ちゃん、そんな持ち方しないよ」
この母の甘ったるい声が妖怪への愛しさを表しているようで、『飼ってもいいのか?』などと聞く必要もないと私を確信させたのです。
「目が開いたのを見ただけだもん」
私は意味不明な言い訳をしつつ手から離してやると、またぴょんぴょんと跳ねて、テレビ台の後ろに入って行きました。
「あらやだ」
「お母さん取ってよ!まだ触りたい!」
そんなやりとりをしていると、妖怪は入って行った逆方向の何も入りそうにない隙間からにゅるりと出てきて私を驚かせてくれました。
そうこうと、遊んでいたら11時を過ぎて再び眠くなってきた頃です。
母が見計らったように声を掛けて来ました。
「○○ちゃん、この子を飼ってもいいけれど、ひとつ条件があるからね」
何を言われるのだろうかと私は身構えました。
「お母さんを『クソババァ』と言わない事、わかった?」
想像していた事と違った条件に私は面食らいました。
「ーーお世話はしなくていいの?」
「あんたはまず自分のお世話をしなさい!」
ちゃんと出来るアピールのつもりが、ぴしゃりと返された私は一気に不機嫌になりました。
条件をのむとも、なんとも言わず、寝る前にお風呂に入れだのなんだのという言葉を無視してさっさと2階に上がって布団に転がり込んだのです。
「クソババァ大っ嫌い、おばあちゃんがお母さんならよかったのに……」
そんな独り言を言葉に出して呟くのは、聞こえるはずのない一階に居る母への反抗でした。
「名前なににしよう」
そんな考えがふと湧いて来て、ランドセルの中身をぶちまけて、私は自由帳を取り出しました。
鉛筆を持つと黒い妖怪ネコを描きはじめ、当初の思いつきの名前の事はすっかり忘れてしまい鉛筆で黒色を一生懸命塗っていたのです。
もっと黒く、もっと黒く、隙間なく、ずいぶんと夢中になっていたでしょう。
出来栄えは鉛筆の炭色の輝きがとても妖怪らしく、満足のいくものでした。
私はにんまりと笑い、枕元に自由帳と鉛筆を放って適当に布団を被って眠りに付いたのです。
『ねぇ、ねぇ、』
『お母さんをたおして』
『おばぁちゃんを』
『おかぁさんに、してあげようか?』
そう、声が聞こえたんです。
『苦しい』
『だめ、』
『なんだか熱くて……』
『苦しい……』
暗闇の中の、オレンジ色の、小さな光。
深夜にだけ、聞こえる時計の針の音。
目を開けた事に気付くと、黒い妖怪が私のお腹の上で不気味な振動を立てていました。
私はこの頃、夜中に聞こえる時計の音が意味もなく怖かったものです。
うっかり目を覚まして、音が聞こえてしまったら最後、もう眠れないと目を覚ましたことを何度となく悔やみました。
けれどもこの時は、少しも怖くなかった。
「妖怪さん、お母さんをたおしたりしないでね」
私は時計の針の音を聞きながら、丸くなっているどこがどこともつかない塊を優しく撫でました。
朝目覚めると一緒に一階へ降りて行く。
早朝から仕事に出た母の代わりに祖母が作るごはんを食べる。
妖怪はテーブルの下でカリカリと音を立ててごはんを食べる。
学校へ行く直前まで猫じゃらしで一緒に遊ぶ。
数日も経てばこの妖怪が家にいる事が当たり前の感覚になっていたのです。
そして、この妖怪にだけ『クソババァ』という愚痴を漏らすようになり、家での大切な友達となりました。
毎日、どんな時も家に帰ればそこに居て、何でも聞いてくれる黒い妖怪。
言葉を返してくれなくても、声をかけると小走りでやってきて、私の足に頭を擦り付けるこの妖怪。
可愛くて、大好きで、可愛くて、あったかい、柔らかい、可愛い可愛い妖怪さんでした。
草木が元気で気持ちのいい日。
嫌いな給食のパンを持ち帰った日。
あの黒い妖怪が家に来た日が思い起こされるこの季節。
あっという間に大きくなったね。
けれども私の指をたまに、吸っていた赤ちゃんみたいな黒い妖怪。
私が布団に入ると、妖怪の足音が聞こえるの。
階段を上る足音を確認してから必ず寝ていたこと。
朝目覚めると、お腹の上に必ずあった黒い塊。
その塊がある事に喜びを感じなくなったのはいつだろうか。
仕方なしにお腹の上を貸してあげていると思い始めたのはいつだろうか。
毎夜あったその重みが私の上からなくなって、寝返りに気兼ねない今。
どうして突然思い出してしまったのだろうか。
もうあの家には誰もいない。
遠く離れた場所で帰りを待っていても帰ってくるはずはないんだから。
家から消えて帰って来ないあの妖怪が、家に入れるように私は窓を開けて一年、待ち続けました。
きっと、そこから出て行ってしまったに違いない私の部屋のあの窓を。
学校から帰ると施錠されている窓。
寝る前に必ず窓を開けても、また次の日学校から帰ると施錠されている窓。
窓を閉めちゃダメだと、おばぁちゃんに泣きながら抗議して困らせてしまったこと。
あの時の祖母の悲しい顔、母の吊り上がった目。
私も悲しくて、怒っていた。
ーーだから、だから目をつぶるとき、妖怪さんの声がするんです。
『元気にしてるんだよ
ありがとう
パンおいしかった』
私を心配してくれている。
そんなわけない、私の不注意で妖怪さんはまた迷子になって悲しんでる。
車に轢かれて死んでしまったかもしれない、お腹が空いても食べるものがないかもしれない。
私は布団の中で涙を堪えました。
あの時、窓を閉め忘れなければ、まだ妖怪と一緒にいられたのに。
あの日に戻れるなら戻ってやり直したい。
妖怪だけを置いて逃げたあの日と同じように、私は『ごめんなさい』と声に出して呟いたのです。
「あんた、小さい時変な生き物ひろってきたよね」
「ああ、うん、いなくなっちゃたあの子ね」
「お母さんね、ずっと思ってたんだけど、たぶんアレはさ……猫に似た妖怪だったんじゃないかしら」
「何バカな事言ってんのよ、もうボケちゃったの?」
「そうねぇ、ボケちゃったかしら」
「あの頃のお婆ちゃんはね、ちょっとボケちゃってたからすっかり騙されてたけど……」
「私はちょっと疑ってたのよ」
「なんで、そんな嘘つくの?」
「あれが猫じゃないなんて、馬鹿みたい」
「馬鹿みたいでいいじゃない、結局あんた妖怪さん、妖怪さんて……」
「あの子はね、いつまでもあんたが妖怪さんて言うから、バレちゃったんだって逃げてったのよ」
「……」
「内緒にしてたけど、あの子家を出て行く日にあんたにお礼言ってたわよ」
「嘘つき!」
「本当にボケる前に教えておかないと、あんたが可哀想だったからね」