今の勤め先と決別を
手紙が届いたのは、舞踏会が終わって2日後。王宮から侍女としての採用されたことを伝えられた。
しかし、驚いたのはその内容である。なんと、1週間以降なら、いつからでも良いから勤められる日を教えて欲しいと言うものだった。それも出来るだけ早くきて欲しいと言葉も添えて。
普通ならこんなの数ヶ月かけて決まることなのに、こんなに早いなんて不気味にすら感じてしまう。今王宮には人がいないのだろうかと心配になるが、こんな好機逃すわけにはいかない。
ただ幸いなことに、今月末に契約の更新日がある。本来ならば、もっと前もって辞めることを申してから、新たな人も探しつつ辞めるべきだろうが、あの男爵なら言った時点で、俺の元で働けないなら今すぐにやめろと言われるのは丸わかりで、クビにされるのは目に見えている。
それでも、一応彼には雇ってもらった義理はあるので、辞めると1日でも早く報告しようと、明日報告することに決めた――これが私にとって1番マシな決別だと。
◇◇◇◇◇
次の日の朝、私はカラーの夢を見ていないことに安堵しながら、朝御飯を食べて、そのまま勤務先に向かった。
男爵家に入ると、相変わらず多くの人から仕事を押し付けられる始末。しかし、これも最後なのだから、大盤振る舞いで気前よく全ての仕事を引き受けた。次回からはそれぞれ自分でしっかりと仕事を熟して欲しいものだ。
仕事を終えて、私は男爵に会いに行った。勿論、辞めることを告げるためだ。元々は部屋に向かおうと歩いていたものの、男爵とは大きな廊下の十字路でバッタリと出会ったのだ。そのため、その場で声をかけるものの、今日の男爵は大変機嫌が悪いみたいで、嫌な顔をされる。
「さっさと話せ」
この屋敷にはそれなりの雇用人がいるため、この道は人がよく通るのだ。そんな中で、話さなければならないとなると、少し気が重い。でもここで待たせたら、もっと気まずいのは分かっていたので、単刀直入に申し出た。
「ご主人様、前触れもなく申し訳ありません。今月末にある契約を更新せずに、今月で退職させて欲しく思います」
「はあ?」
どうやらこのように言われるのは予想外だったのだろう。なんせ私は今までどんな状況でもここを辞めずに、5年も勤めてきたのだから、確かに意外だったかもしれない。実際にあの誘いが無ければ、辞めるつもりなど毛頭無かった。
「そんな無断で辞めて良いと思っているのか?」
「確かにその件に関しては申し訳ありませんが、突如決まったことです。もう決定事項なので」
「人に馴染めない奴が、他で働けるものか。痛い目に遭うのはお前だぞ」
「確かに馴染めるかは分かりませんが、ここに居ても明るい未来は見えませんから」
「はあ? 何庶民の女のくせに、ここまで良い給金を払って、侍女という立派な役割を与えてやっているのに、優しい主人に向かって何だその口は」
一瞬自分の耳を疑ってしまった。本気で自分が優しいと思っているのだろうか? そんなわけない。つい口が滑ってあんなことを言ってしまったが、想定外の返答が来たことに憤りを感じる。どうせここを辞めるなら言いたいことを言ってから辞めよう。
「確かに私が女で庶民であることは事実ですから否定いたしません。しかし、女で庶民だからという理由の分からない理由で話をまともに聞かない雇用主なんて最悪です。優しさなんて微塵も感じませんわ」
「生意気な。あぁ良いだろう、今月とは言わずに今すぐ辞めろ。勿論、今月働いた分の給金は無しだ。お前の理由で勝手に辞めるのだからな。新しい所でここが良かったと後悔することになるだろう。泣いて雇って欲しいと言われても聞き入れないからな」
本当に清々しいほどの屑っぷり。今までの対価すら払わないなんて呆れてしまう。それに思い上がりもいいところだ。本当ならこちらの方から文句を言いたいものの、流石にこれ以上は揉めたくないので、何とかして我慢して言葉を飲み込む。
「あんなに好条件なところを私から辞めるだなんて、決してありませんわ。縋り付いて泣き喚くことはないのでご安心ください」
「見事な自信っぷりだな。ただお前が辞める気がなくても、辞めさすことは可能だ。何処で働くつもりなんだ? ここらへんだと雇わないように言うことも出来るさ」
本当に何処まで威張り散らしたら気が済むのだろうか。もしこのままだと家族にも被害が被るかもしれない。それだけは何が何でも避けたいところだ。ならば今私に出来ることは正直に申し上げるのみだった。
「私は王宮侍女になります。言えるものなら言ってみたら良いですわ。それと、私の母と妹達はランカスター公爵家やオールトン侯爵家に勤めることになりますから、そちらも手を出さない方が賢明かと」
王宮侍女、ランカスター侯爵、オールトン侯爵と3つの言葉を聞くと、男爵の顔は青ざめている。そりゃ、何処の雇い先も成り上がりの男爵が到底手を出せるところではない。
勝手に母や妹達の就職先を言ってしまったのは、彼女達に申し訳なさを感じたが、これで釘を刺せたかと思うと安堵してしまう。後は華麗に男爵と別れるだけだった。
「ラッセル男爵様、5年間雇っていただきありがとうございました。最後の給金は、迷惑料と手切れ金と言うことでよろしくお願い致します。それでは、ごきげんよう」
私は元令嬢であることを見せつけるかのように、礼儀正しいカーテシーを取る。男爵は挨拶を返す気力もなく、ただ私がその場を去るのを見つめるだけだった。
そして、私は話を聞いていたすれ違った他の侍女や従者達には軽い会釈で優美に最後の挨拶をして、満面の笑みを浮かべる。相手側は、誰一人私に声をかけることもなく、冷たい顔で睨みつけてきたが、ここを離れる私にとって、その顔は何も怖くは感じなかった。
この家を出ると、いつも吸っている空気が新鮮な感じがして、初めてこの場所で気持ち良いと感じたのだった。
◇◇◇◇◇
家に帰ると、すぐに手紙の返事を出した。流石にきちんと辞めてからでないと、出すわけには行かなかったのだ。そのため、実はあの時決定事項ではなかったのだが、実際にそうなることは確信しているため、あんなことが言えたのだった。
そう言えば、カラーの夢を見たこと以外で確信したことは無かったことに気づく。それだけ今までは、全て疑ってきたという証だった。
それと同時に何故ここまでこの件について疑わないのか、疑問が出てきてしまう。しかし、この手紙を再び読むとその気持ちは薄らいで、寧ろ王宮侍女になることへの嬉しさで気分が高揚してしまった。
手紙を出して2日後、希望した日にそのまま来るように書かれていた。なんと、舞踏会が終わってから1週間という短い期間で、私は王宮侍女の一員になることが決定したのである。
確かに、母とエラは私と同じ1週間後に働き始めるし、ロゼリアは昨日からランカスター侯爵家へ侍女としてもう勤めているのだ。
ランカスター侯爵家の領地自体は、ここの領地から通えなくもない距離であるが、彼女が勤めたのは王都に住んでいる騎士団長でもある侯爵令息様の所だから、住み込みで働いている。そのため、暫くは帰って来れないため、一昨日は激しく抱きしめ合った感触が未だに残っていた。
私も王宮で働くと決まった以上は、侍女の寮で住み込みとなるだろうから、簡単に帰ることは出来ない。それも本当にもう少しだと思うと、ここから離れることへの寂しさも込み上がってくる。
しかし、それ以上に新しい生活への興奮が強い。
何だかこれから、想像もつかない何かが起こる気がする。予知夢も見ていないのにも関わらず、何となくそんな予感がしたのだった。