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ー、柿原

 念のため、もう一度言わせてください。

 この小説は、ただの妄想であり、フィクションです。

 実在のあらゆるものと何の関係もありません。

 ――――――――――――

(まさか!)

 柿原の持つコーヒカップが、妙な位置で空中に固定され、店にいる人々が彼を見たのなら、柿原だけ時間が止まったようにみえただろう。

 実際には、誰も、柿原を気に止める人などいなかったが。


(嘘だろ。なんでこんなところに?)


 もうあまりに昔の話だ、覚えている人は少ない。お年を召して、人相も変わっている。ゆっくりとハムエッグの朝食を取るこの老人が何者なのか、関心がある人も、この世にほとんどいないのだろう。


 けれど、柿原にとって、彼は、子供の頃の憧れの人だった。

 テレビに映るその人をみると、自分にも明るい未来が開ける気がして、ワクワクした。ニュース番組や中継最後のインタビューのビデオを繰り返しみて、英語のシャドーイングをしたのだった。


 手に汗が浮き出したのを感じて、滑り落とさないようにと、柿原はコーヒーカップを置いた。


(どうしようか。)

 30秒だけ悩み、すぐその悩みを打ち消す。


(話しかけるに決まってるんだろうがぁぁぁっ!!!)


 今、話しかけねば、もう二度と会うことはできないかもしれない。

 このチャンスを逃すな!


 では、何と声をかける?

 

(落ち着け、呼吸しろ。間違いない、あれは谷川さんだ。谷川さんは、今、ハムエッグを食べている。おそらく朝食だろう。ここで、あの服装で、この時間に朝食を食べているということは、おそらくこの辺りにお住まいなのだろう。大丈夫だ、俺、時間はまだある。話しかける言葉を選ぶんだ。)


 思わず目を瞑る。

 すると、子供の時に谷川に何度も彼の英語をシャドーイングしながら、憧れのイメージを頭に思い浮かべていた頃の気持ちと、横領事件で突然画面から消え、宙ぶらりんになった気持ちが一緒に蘇ってきた。不意に目頭が熱くなったので、柿原は自身で驚く。

 

 自分にこんなにも熱い想いがあることを自覚して、覚悟を決めた。


(笑顔だ、大丈夫だ、これまでも何度も突撃取材はしてきたじゃないか。)

 

 「谷川さんですよね?」


 老人は驚いた顔をする。予測済みだ。笑顔を崩さない。


「すみません、はじめまして、柿崎といいます。昔、僕は、あなたのファンだったので、思わずお声がけしてしまって…。」


 谷川の顔に恥ずかしそうな笑顔が浮かぶ。


(テレビでみた笑い方だ!)

 と柿崎は思った。

 

 静かな声で、ぽつりぽつりと返事をくれる。


「日本語で話しかけられたので、驚きました。」

「もう日本には何年も帰っていない。」

「昔のことなのに、よく私だと、分かりましたね?」


「左頬の黒子が目印になりました。」


 谷川は驚いたような顔をする。


「僕は本当にあなたのファンだったんです。インタビューは横向きだし、そのインタビューを見ながら何度も何度もシャドーイングをしました。だから、黒子があることを覚えていて、すぐに気がつきました。」


「なるほど」


「あなたの英語は人気があったんです。英語学習者向けのビデオが何本も動画サイトに公開されていたんですよ。だから、あなたのビデオで英語を勉強していた人はたくさんいると思いますよ。」


 谷川は、納得したように何度も頷いてくれたので、柿原は作戦通り自分のことも話すことにした。


「それだけじゃなくて、私は本当にあなたのファンだったんですよ。小学生でした。スポーツ選手になりたいと思う年頃です。でも、僕は、その時点で、もう本当に才能がなくて(笑)。田舎の普通の学校の部活やら遊びやらでも、絶対勝てないくらいで、自分はスポーツ選手にはなれないのだという自覚が子供心にあったんです。だから、あなたの活躍は、スポーツの才能がない自分でもスポーツに関わるプロとしてやっていける仕事があるんだと思って、その時からあなたを目指して自分もスポーツ通訳になろうと思っていました。」


(よかった、不快そうな顔はしていないな。)

 柿原は、好々爺然としてきちんと話を聞いてくれている様子に安堵してさらに話を続ける。


「残念ながら、通訳にはなれませんでした(笑)。才覚の領域というのかな、自分には、通訳に必要なスピード感を身につけることができませんでした。あなたの映像のシャドーイングで、かなり練習したつもりだったんですが、練習が足らなかったのかな?

でも、ゆっくり考えるのは得意だったんで、スポーツライターになったんです。」

 

「あなたの通訳はすばらしかった!!!とっさの機転というか、意訳が何とも絶妙で、聞いている人が笑顔になるような、そんな言葉になって英語になるから、ただのインタビューがすごく立体的になるというか…!」


 話しているうちにだんだん興奮して、捲し立ててしまった。いけない…、と思ったが、谷川は優しく謙遜の言葉でその会話を繋いだ。


「いやいや、もう、ただの話し言葉にしているだけだったですよ。」


柿原は、その場で泣き出したい気持ちになった。


「本当です。実は、記事を書くだけじゃなくて、翻訳もしているんですが、行き詰まると今もあなたのビデオを見ることがあるんですよ。」


「あなたは僕の憧れでした。」


「最高のスポーツのプロだった。」


「あなたへの憧れが今の僕を作ったんだと思います。ありがとうと言わせてください。」


 沈黙は涙を堪えられなくしそうだった。

 そうならないためには、もう、話すしかなかった。


 谷川は本質的に優しいらしい。

 興奮気味の柿崎を気の毒に思ったらしかった。

 

「こちらこそ、ありがとう。

 僕は、皆を裏切ってしまったから、そんな風に言ってくださる人がいるとは思わなかったです。

 よかったらば、少しお話ししましょうか?」


 ――――――――

 登場人物①:柿原

 スポーツライター、翻訳家。


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