絶対にドレスを脱ぎたくない花嫁は、とうとう初夜を迎えてしまう
幸せの絶頂に居るはずの花嫁は、ふうとため息を吐く。
ずっと恋心を抱いていた麗しの令息に求婚され、結婚式を挙げたばかりだというのに。
「若奥様、湯浴みの御用意が整いました」
とうとうこの時が来てしまった……
覚悟を決めて浴室へ繋がる小部屋へ向かうと、そこには香油やタオル、そして……薄い下着に薄いナイトドレス。
ああ……神様……
花嫁は震える手で、実家から持って来たある物を、侍女に渡した。
◇
侍女に案内されたのは、煌々と灯りが広がる……朝の太陽の中に居るような夫婦の寝室。
豪奢なソファーには、麗しの令……夫が、ガウン姿で長い足を組んでいた。
湯上がりだからか、いつもはきっちりと上げている銀色の前髪が、湿り気を帯びて額に垂れている。黒みがかった深い紫色の瞳が、戸惑う妻を捉え妖艶に微笑んだ。
眩しい……眩しすぎるわ。この部屋も、この人も。
「おやすみなさいませ」とドアを閉めようとする侍女にすがりたくなったが、そんなみっともないことは出来ず、必死で堪えた。
実家で愛用していたぶ厚いナイトドレスは、さっきからずっと握り締めている為、汗でしわくちゃになっている。
「こちらへおいで」
勧められるままに、夫の隣へ座る妻。
「疲れていないか?」と訊かれ、「はい」と答えれば、今日の結婚式の話に。初めて会った親戚や友人の説明から始まり……やがて今日の花嫁がどんなに美しかったか、どんなに花婿が幸せだったかが、艶やかな唇から語られた。
熱の籠った視線がぶつかり、いよいよなのだと妻は悟る。口内の水分をかき集め、渇いた喉になんとか送れば、ごくりと間抜けな音を立てた。
夫は妻の背と膝の裏に腕を回し、ひょいと抱き上げベッドへ運ぶ。
腕が……膝の裏に彼の腕が……!
妻はもう気が気ではなかった。
柔らかいシーツの上に優しく置かれると、捲れそうになっていたナイトドレスをすぐに整え足を隠す。
我ながら素晴らしい早業だと、妻は自分に感心していた。
さあ、この調子で……はっきり言うのよ、旦那様に。
「あの……」
「ん?」
「灯りを……落としていただけませんか? その……恥ずかしいので。真っ暗にしてください」
「……いやだ」
子供みたいな口調に妻は気勢を殺がれるも、ここで引き下がる訳にはいけないと、自分を奮い立たせる。
「お願い致します。本当に恥ずかしいのです」
「いやだ」
顔がピクピクとひきつる妻に、夫は甘い声で囁く。
「君を……君の全部を、ちゃんと見たいんだ」
掻き上げた銀髪から滴る雫を、ペロリと舌で掬う。
花嫁の全身はぞわりと痺れ、頬を撫で始めた熱い手に全てを委ねてしまいそうになる。が……
足、足、足、と心で唱えながら、必死に理性を保っていた。
「お願い致します。暗くしていただかないと、私はこのドレスを脱げません」
「いやだ、消さない、見たい」
「お願い致します」
「いやだ」
「……脱げませんから」
「い・や・だ」
お互い一歩も譲らない為、ついさっきまで漂っていた色気や甘いムードは、すっかり消え失せている。
妻は眉間に皺を寄せ、夫は唇を尖らせる。ここまできたらもう、子供の喧嘩だ。
数分間のにらみ合いに勝利したのは妻。可憐な容姿からは想像出来ぬ強い目力に、夫はたじろぎ、ゴホンと咳払いをしながら言った。
「……少しだけなら……暗くしてもいい」
そして、妻の上からよいしょと身体をずらし、サイドテーブルに置かれた小箱のネジを一つひねった。
パッ……
室内のどこかの灯りが一つ消える。さっきよりは暗くなったものの、まだまだ昼間みたいに明るい。
妻は不満げに言う。
「まだ明るいです」
夫も不満げな顔で、しぶしぶもう一つネジをひねった。
パッ……
昼間程ではないが、夕方よりも明るい。
「……まだです」
夫は少し泣きそうな顔で、三つめのネジに手を伸ばす。
これをひねったら、とうとう部屋が真っ暗になってしまう……
彼の身体に燻る熱は、恐怖で忽ち冷めていった。
パッ…………パッ!
一瞬だけ真っ暗になったかと思えば、またすぐに夕方前の明るさへ戻る。妻が怪訝な顔で見れば、夫の震える指が三つめのネジを元に戻していた。
妻もわなわなと震え出し、頑固な夫にとうとう不満を爆発させた。
「まだ……まだまだ……! そもそもこのお部屋は明るすぎます! 夜なのに三つも魔道具を使って無駄に灯りを灯して……蝋燭かランプ一つで充分じゃないですか!」
「無駄とはなんだ! 僕は……僕は、明るくなきゃ眠れないんだ! 暗いのが怖いんだ!」
「私だって……足を見せるのが怖いんです! この小顔と華奢な上半身からは想像も出来ない程、足が太いんです! ほらっ!」
半ばやけくそでピラリと捲られたナイトドレスの下からは、肉付きの良いむっちりした二本の足が突き出している。
……思わぬ事態に、夫はパチパチと瞬きをしながら、無言でそれを見下ろした。
そんな夫の態度に、妻はむき出しの足をバタバタさせながら、わあっと泣き出してしまった。
おろおろしながらも、夫は目のやり場に困り、むき出しの妻の足に毛布を掛けた。
肩には自分のガウンをかけてやり、背中を……確かにさっき見た足と比べたら、大分華奢かもしれないその背をさすり続けた。
落ち着いてきた頃────
二人はそれぞれが抱える恐怖について、ポツリポツリと話し始めた。
まずは夫から。
幼い頃、病を患っていた母が真夜中に亡くなったことが原因で、暗い部屋がトラウマになってしまったと。
父がそんな息子の為に魔道具事業に力を入れ、その結果、ネジ一つで太陽のような明るさを部屋に灯す魔道具の開発に成功した。
夜中灯し続けて、耐久時間は約一週間。蝋燭やランプより高価である上に、こまめな買い替えが必要ではあるものの、彼の安眠の為には三つ灯すしかなかった。
次は妻。
幼い頃、妹や従姉妹と入浴した際、自分の足が大分太いことに気付いたと。
最近流行りのふくらはぎを見せるドレスも着ることが出来ず、いつも流行遅れの足首まで覆うロングドレスで隠していたのだ。
何故彼女がここまで自分の足をコンプレックスに感じてしまったかというと……それは、ある夜会で耳にした若い令息達の会話が原因だった。
『……女性の足って神秘的だよな。夫しか、ふくらはぎより上を見ることが出来ないんだから』
『ああ、細くて綺麗なふくらはぎの令嬢を見ると、ドレスに隠されたその上を想像して興奮するんだよな』
『初夜でドレスを脱いで、もし太かったらどうするんだ?』
『それは幻滅するな。片手で掴めるくらいの細い太腿が理想だよ』
『分かる分かる、すらっとして、頼りなくて……これぞ花嫁だよ。うちの侍女頭みたいな豚だったら抱く気がしない』
『動物は繁殖の為に雄の方が美しいだろ? 孔雀の雌はブスだし、ライオンの雌は貧相だし。せめて人間は、雌の方が綺麗でいてもらわないと、雄は繁殖する気も起きないよな』
はははっと笑う令息達の声は、今でも彼女の耳に残っている。
……普通なら、ただの下世話な会話と呆れただけかもしれないが、彼女は大いに傷付いた。何故なら、この時ある令息に恋をしていたから。そう、令嬢達の間で高嶺の花と騒がれていた、眉目秀麗のこの夫に。
何故自分が交際を申し込まれたのか、彼女は分かっていた。……とにかく顔が可愛いからだ。
絵になる美男美女。ライバル達もこの交際には意を唱えることなく、温かく見守ってくれた。
麗しの令息は、想像していたよりずっと気さくで、かつ紳士だった。話も合うし、年齢も家柄も釣り合う。ついに求婚され、結婚に向けて交際はトントン拍子に進んでいった。……ずっと太い足のことを言い出せないままに。
そしてとうとう、初夜を迎えてしまったのだ。
「ごめん……君の気持ちも知らずに」
「いいえ、私こそ何も知らずに、灯りを消せだの無駄だの酷いことを言って……ごめんなさい」
「いや、言わなかった自分が悪いんだ。いい歳して、暗い部屋が怖いだなんて言い出せなくて」
「私こそ……足が太いなんて知られたら、幻滅されて婚約破棄されちゃうんじゃないかって。怖くて言い出せなかったの。馬鹿よね……どうせ初夜でバレちゃうのに。暗くしたって、触られたらバレちゃうのに。だって私の太腿は、片手でなんか絶対に掴めないもの……太腿どころか足首だって……うっ……」
再び溢れる涙に、声を震わせる妻。夫はその肩を優しく抱き寄せた。
「幻滅なんてしないよ。それは……最初は君の容姿に惹かれたかもしれないけれど、内面だって負けないくらい可愛い。素直だし、楽しいし、優しいし。ずっと傍に居たいと思ったから求婚したんだよ」
「でも……私の足……見たでしょう? あんなよ?」
すると夫は、真面目な顔で答えた。
「他の女性の足を見たことがないから何とも言えないけど……確かに顔や上半身に比べたらぷにっとしているかもしれない。たけど、白くて可愛かったよ」
『綺麗だ』と言わない所が、正直な彼らしい。妻は涙を拭って、くすりと笑った。
「君が許してくれるなら……触れてみたいって思うんだけど。灯りは二つ消すから……駄目?」
夫から漂い始めた艶やかな色に、妻はもう逃げる術を知らない。涙目でこくりと頷くと、甘い吐息と熱い手に、全てを委ねてしまった。
◇◇◇
あれから妻は、夫の前に足を晒すことになんの抵抗もなくなった。……というよりも、夫から与えられる甘い刺激に、足のことなど何も考えられなくなってしまうのだ。
夫も妻の甘さに夢中になり、彼女を抱き締めていれば、いつの間にか灯りを三つ消しても眠れるようになっていた。
……真っ暗は怖いと、彼女には時々嘘を吐いて、その白い景色を楽しんでいたが。
「……どうかしら? やっぱり変じゃない?」
流行りのミモレ丈のドレスを着た妻が、頬を赤らめながら夫の前に出た。
白いぷにぷにのふくらはぎが、空色のドレスから半分ひょっこりと見えている。
「可愛いよ、すごく。君は色が白いから、この色がよく似合う。……本当は誰にも見せたくないけどな」
そう言いながら、妻をぎゅうっと抱き締める。
「でも……私は貴方とデートがしたいわ。貴方が可愛いって言ってくれるなら、この足で堂々と街を歩きたいの」
妻の笑顔に、夫も嬉しそうに微笑んだ。
「うん。僕も可愛い君と一緒に、アロマキャンドルを選びに行きたいよ。……湯浴み用のね」
小ぶりな耳元に囁けば、妻の顔は真っ赤に染まっていく。
「……さあっ、行きましょう」
ひらりと翻ったスカートの中……チラリと見えた膝裏の赤い痕を見て、夫が満足げに笑っていたことを妻は知らなかった。
ありがとうございました。