009
「セラちゃん! ……が、居ないのです。お留守番ですか?」
俺の繰り出す数々の妨害工作を乗り越えて、ついに辿りついた駅前のコンビニ、ノエルは店に入るなり首を傾げた。
助かった、という思いと共に、それから俺も首を傾げる。武蔵小金井の看板娘セラヴァーナは24時間、365日、≪中央≫の定期メンテナンスを除けば、いつでもレジカウンターに立っているはずだった。
セラヴァーナの代わりに立っているのは、初老の域にある女性だった。2台あるレジ、奥側のひとつに立って昼食を買いにきた客をさばいているが、手慣れていない様子が一目でわかる。
見覚えのない女性店員に違和感を覚え、つい、「里ちゃん、彼女は新しいバイトさん?」と尋ねてしまった。
里ちゃんは務め始めてから5年のベテランで、夫と子供もいる若妻だ。響きが良い。最低生活金保証制度で暮らしていける世の中とはいえ、子供を良い学校に入れたいとなると金がかかる。子供の学費のために夫婦そろって勤労にいそしむ、最近では珍しい女性だ。偉い。
「えっと、オーナーの奥さんです」と潜めた声。
聞いてはいけないことを聞いた気がして、なにかの違和感を覚えた。
危険を嗅ぎ分ける戦場の嗅覚が目覚め――里ちゃんが怯えた顔を見せた。これは、失礼。
「里ちゃん、セラちゃんは居ないのですか?」
「あら、ノエルちゃん、お久しぶり。セラちゃんは、お医者さんに行ってるのよ。せっかく来てくれたのに、ごめんなさいね」
レジに商品を通しながら、よどみなく会話もこなせるのは女性ならではと言えた。だが、里ちゃんのレジに並ぶのは、時節しかたがない天使アレルギーの人間が多い。接客の邪魔になってはいけないと、俺はノエルを手元に寄せた。
戦争から10年といっても、もう10年の人もいれば、まだ10年の人もいる。とくに戦争で身近な人間を亡くしてしまった者にとっては、まだ10年、憎しみの炎が鎮まるには短すぎる時間といえた。
天使の手に触れることはおろか、天使を目にすることさえ嫌だ、という人間も多い。
なら、互いに見なければ良いと思うのだが、人間の心はそう器用には造られていない。
好きも嫌いも憎しみも、関心のひとつで、感情があるなら無関心ではいられないのだ。
ノエルを庇うように一歩下がらせ、悪意ある視線には背中を向けさせる。
ちょうど会計の終わった客がレジ袋を掴み横を通り過ぎる。
チッ、不機嫌な舌打ちがひとつ。
仕方がない。
「ロリコンが……」
仕方なくないっ!?
大いなる誤解を抱いたままに去っていく店の客に、なんと声をかけたものか。無言で視線を戻すと、里ちゃんのレジに並ぶ客の視線が、ノエルよりも俺のほうに向いている気がした。どの瞳もそろって、「ロリコンが……」と語っている気さえした。
重婚に乱婚、性の解放宣言がされた帝都にあっても、小さな子供たちだけはいまだ聖域に守られている。帝都の未来を担う人材として、戦前よりもむしろ手厚い保護を受けているくらいだ。
たしかに、そういったことを目的として天使を所有したがる人間は多いが、俺は違うし、そもそも、行為自身が法に触れる。まあ、専用の機材を購入すれば、法の網をくぐることもやぶさかではないものの、俺は違うのだと声を大にして言いたいのだが、主張すれば主張するほどに疑いも増すのが人間というもので、こういうときは黙って逃げるにかぎるものだ。
ノエルを連れてレジ前を離れて窓際の雑誌コーナーの隅に。
責めるような視線が俺の背中を追いかけてきたような気がした。
馬鹿、やめろノエル。視線に向かって笑顔で手を振るんじゃない。
「そーちゃん、セラちゃんは居ませんでした。セラちゃんはお医者さんだったのです。お病気のセラちゃんのお見舞いにいくのです」
「お見舞いにはいかなくていい。セラヴァーナが行ったのは健康診断というやつだ。病気になったわけじゃあないから安心しろ。彼女はすこぶる健康だよ」
「セラちゃんは病気ではないのですか。ノエルは安心したのです」
半年に一度行われる、≪中央≫のメンテナンスだ。天使はそのまま放っておけば、やがては翼を再生させ、人類の奴隷から人類の宿敵に変貌する。その期間には個体差はあるが、半年よりも短いということはない。人間に例えるなら散髪や爪切りのようなものだが、人間と大きく違うのは、天使の翼には神経が通っているということだ。
どうせまた生えてくるのだから、という理由で、生爪を剥がれるようなものだ。その痛みには泣きもするし叫びもする。≪中央≫の処置室で彼女たちがどんな扱いをされているのかを知ったなら、天使を借り受けようとするオーナーは極端に減ることだろう。――減るのだと、信じたい。
「セラちゃんは、よくお病気になるので、ノエルは心配だったのです」
「病気じゃないぞ。健康診断だから安心しろ。……どうして知っているんだ?」
「そーちゃんが言ってたのです。セラちゃんがお休みしてたと前に言ってたのです」
「そうか……俺は、いつそれを言った?」
「112日前の夜なのです」
天使の頭脳は、とても機械的だ。数字や文章といったものなら、人間の何万倍、何億倍を記憶し処理するだけの能力を持っている。世界で最高の並列型電子演算装置、通称スーパーコンピューターでさえ、名もなき天使の足元にさえ及ばない。
その一方で、数量化できない曖昧なもの、抽象的な事柄を処理するための能力は極端に欠落している。料理や着衣といったものが、そうだ。人間の生活の大部分と言っても良い。人間がぼんやりとした感覚で処理しているものが、彼女たちの頭脳では処理できないのだ。
そして、ノエルが112日前と言うなら、前回のメンテナンスは112日前で間違いない。およそ180日周期で訪れるはずのメンテナンスが前倒しになる理由は少ない。≪中央≫の事情か、あるいは天使が物理的に破損した場合のみだ。
「ノエル、店内に最近……24時間以内にできた幅と奥行き1センチ以上の傷は幾つある?」
「0なのです」
これで事故や暴行事件の線は消えた。
天使とはいえ、いや、天使だからこそ、暴力を用いずに誘拐することは難しい。
人間と違って筋肉の運動に限界がない彼女たちは、翼を失ってなお、人間よりも頑強だ。
≪中央≫から貸し出される前に、誘拐対策の優先命令を受けているはずだった。
暴力を用いずに彼女を店外に連れ出そうとするなら――「なるほど、それは青春映画だ」。
「そーちゃん、楽しいことがあったのですか? それはノエルのおかげですか?」
「楽しいことがあった。ノエルのおかげだ。ありがとう」
にやりと笑い、ノエルの銀色の髪を撫でまわそうとして、やめた。
そういえば人前だったことを思いだす。
「ノエルは、ご褒美の撫でなでをご所望なのです」
「今か? ここでか? それは、家に帰ってからでも良いんじゃないか?」
「今なのです。ここなのです。お家に帰るまでには15分32秒かかるのです。そーちゃんの愛が売り切れてしまうのです。さあ、ノエルの頭を撫でなでするのです!!」
「無駄に大きな声を……」
俺は、ぷるぷると震える手を、ノエルの頭に乗せ……。
「もっと、愛情を込めるのです!! お家で撫でるように、もっと愛情を込めるのです!!」
俺の背中の方角から、声が聞こえる。
やっぱり、あの人……といった心無い囁き声が聞こえる。
撫でる。
無心で撫でる。
撫で続ける。
「そーちゃんの撫でなでに気合が入っていません。ノエルは御不満なのです」
無心ではいけなかったか。
俺は恥辱の味を噛みしめて、さらなる撫でなでを、
「あの、ちょっと、事務所までよろしいでしょうか?」
せずに済んだ。
奥側のレジで慣れない作業をしていた初老の女性、オーナーの奥さんだった。
レジ奥の事務所、スタッフルームは安価な机と椅子、名札が貼られたロッカー、それに監視カメラの映像を映すモニターが一台という殺風景な部屋だった。机のうえには読みかけの漫画雑誌が放り出されている。なんとなく、接客業にとことん向いていない彼を思いだした。
店内で騒いだことで怒られるのかな、などとは思っていない。それなら、店の外に放り出しておしまいだ。
わざわざ、スタッフルームに連れてきたということは、それなりの理由があるはずだった。
椅子に座らせ、湯呑にお茶を淹れて、わざわざお茶請けのプリンまで用意したのだから、それなりの話があるはずだった。だが、なかなかに話を切り出すことがない。迷う気持ちも分かるが人生は有限だ。手早く済ませられるものは、さっさと終わりにしたかった。
「まず先に言っておく。返事はしなくてもいい。詳しい話を聞いてしまえば、通報義務が発生する。――かもしれない。通報義務に違反した場合には隠匿罪が適応され、俺もまた処罰対象となる。だから何も答えなくていい。……理解したか?」
初老の女性は、首を縦に振った。
そう、これは一度でも口にしてしまえば引き返せないたぐいの話だった。
「通常、≪中央≫が行う定期メンテナンスは180日周期だ。前回のメンテナンスは112日前、2か月も前倒しになることなどそうはない。だが、店内にセラヴァーナのすがたはない。まず考えられるのは誘拐だが、店内には争いの形跡は無かった。つまり、暴力なしに犯行は行われたわけだが、これを可能とする人間は極めて限られる。セラヴァーナへの命令権を持つ人間はオーナー夫妻、それから、その息子のみが該当すると思われる」
俺は、視線をやった。
息子のほうだろう、もしも夫が天使と駆け落ちしたなら、心配ではなく怒りに満ちた表情を浮かべているはずだ。
「さて、御存じのとおり、セラヴァーナの所有権は≪中央≫が持っている。彼女を連れて逃げたとなれば、これは窃盗だ。そして、ただの窃盗で済まないのが天使だ。天使は時間とともに性能を取り戻し、やがて人類の脅威となる。ゆえに天使の窃盗は原則死刑と定められている」
死刑。
もはや聞きなれた言葉だが、いまだ身近なものではない。
それはテレビ画面の向こう側にあるもので、自分の生活とは関わりのないものだ。
昨日までは、もしくは今日の朝までは、そう思っていたことだろう。
「天使の窃盗を知った者は、即座にこれを通報しなければならない。だがそれは同時に、息子の死刑執行書に署名捺印するようなものだ。だから急なメンテナンスだと誤魔化し、時間を稼ぎながら、どうにか事件を無かったものにできないかと旦那さんが手を尽くしているところなのだろう。――と俺は思っている。ただの想像だ。ミステリ小説は嫌いじゃない」
「そーちゃんは、ミステリ小説が好物なのですか?」
「言ってみただけだ。だから、もう少しだけ静かにしてくれると嬉しい。お願いだよ?」
「ノエルは、そーちゃんのお願いなら、なんでも聞いてあげるのです」
今晩の夕食にミステリ小説のステーキが出てこないことを祈ろう。
人間であれば簡単に判別できる野菜と木材の区別が、ノエルのなかでは曖昧だ。
タケノコは食べ物で竹は食べ物ではないというのも、人間の勝手な区分なのだろう。
「さて、俺は天使処刑人だ。もしかすると、コンビニオーナーよりも幅広いところに顔が効くのではないか、と思われているのかもしれない。まあ、正解だ。商工会議所や労働組合はともかくとして、軍警察や≪中央≫には人脈がある。だがしかし、だ。俺は汚職に手を貸す気はない。それが出来たなら苦労はしていない。残念だが、そういう話なら、他所を当たってくれ」
突き放したのは互いのためだ。と思いたい。
軍警察が腐敗の温床と化したとはいえ、中身は生の人間だ。
上層部はともかく、現場には人情の欠片くらいは残っているだろう。
肉親なのだ。通報がわずかに遅れたことの情状酌量くらいはしてくれる。と願いたい。
だが初老の彼女は、
「一人息子、なんです」と言う。
「あの子には、兄が二人いました。ひとりは大陸の戦いで死にました。もうひとりは、帝都を守るために死にました。第五次帝都決戦です。街の西にある慰霊碑には、あの子の名前も刻まれています。軍警察はあの子を英雄だと言います。でも本当は、囮に使われただけなんです。囮として、土地諸共に焼かれれたんです。火で焼かれ、灰の欠片も残りませんでした」
おまえの罪を知っている。と言わんばかりの表情をしていた。
怒りと憎しみ、それから青い火と蛇の毒を少量混ぜた、冷たく危険な感情を見せていた。
鬼、いや女性だから夜叉か。
「だから俺には、貴女の末息子を助ける責任があるとでも?」
「人であるなら」
俺は、頬をかく。
人であるなら、とは、じつに面白いところを突いてくれる。
なら、セラヴァーナを24時間働かせ続ける自分はどうなんだ、と逆に問いかけたくなる。
どうやらこの場には人でなしが二人いるらしい。
「お婆さんは困っているのですか?」
三人だった。
天使の性分として、ノエルは困っている人間を見捨てられなかったらしい。
「そうね。詳しくは話せないけれど、とても困っているのよ」
そう言って、ノエルを見つめる目には憎しみの色が――感じられなかった。
セラヴァーナ、神の道具として使い捨てられた彼女のことを知っているからだろうか。
だがそれでは、24時間働きづめにしたことと矛盾する。――いや、矛盾するのが人間か。
「それじゃあ、ノエルに任せると良いのです。人間を助けるのは天使のお仕事なのです」
「貴女に?」
ノエルがやりたいというなら、好きにするといい。
俺は、そこまで狭量な男であるつもりはない。
「はい。ノエルと、ノエルを愛するそーちゃんに任せるのです。そーちゃんの愛が、あと18秒だけ残っているのです」
「なんだと!?」
「16、15、14……」
「それじゃあ、お願いしてみようかしら」
初老の女性の顔が、愉快げに頬の皺を深める。
そしてノエルの瞳が、おい、やめろ。
「そーちゃんはノエルと約束するのです。このお婆さんを助けると約束するのです。ノエルを愛するそーちゃんなら、約束できるはずなのです。あと、5秒以内に約束するのです!」
「……わかったよ。やれるだけのことは、やるさ。約束する」
「良かったのです。そーちゃんは約束を守る男なのです。そーちゃんはノエルとの約束を破ったことは、いままで72回しかないのです」
わりと破ってるじゃあないか。
それでよく、俺のことを信じられるものだ。
「経費は別途で要求するぞ?」
「一時間で5000圓なのです」
愛というのは、あまり大安売りするものじゃあないな。と俺は心の底から思った。