008
ノエルが拗ねた。
「実家に帰らせていただくのです!!」
口いっぱいにパンを頬張りながら、もごもごと言った。
もごもごの言葉の意味を理解したのは、ノエルが走り去ったあとだ。
天使にも感情はある。つい忘れがちになるのだが、価値基準が人間のそれと大きく違うだけで、感情そのものは人間同様に持ち合わせている。
だから、彼女たちの価値基準に沿わない発言をうっかりしてしまうと、ノエルの心は大きく傷つく。たとえば、台所のトースターの性能がノエルよりも上だとか評価してしまうと、実家に帰ってしまうくらいには傷つくのだった。
乙女のプライベート、ノエルの私室にたてこもり、徹底抗戦の姿勢を見せていた。
鍵のかかっていないドアにすがりついて彼女の機嫌をとる男は、ああ、テレビドラマのなかの俳優もこんな情けない感じだったのだろうなと思わせる俺だ。
「そーちゃんは、ノエルとトースターさん、どっちが大事なのです!?」
「もちろん、ノエルだ」
「じゃあ、そーちゃんはトースターさんとバイバイしてくるのです!!」
「それは無理だ。もったいない」
「そーちゃんの浮気者っ!! そーちゃんなんて、トースターさんと結婚すればいいのです!!」
性別どころか、生命の概念さえ超えたジェンダーフリーの発言だ。
神の否定から始まる前時代的倫理感の消失は結婚制度にも影響を及ぼし、帝都の法では男性同士だろうが、女性同士だろうが、一夫多妻も多夫一妻も、重複した乱婚さえも認められている。が、さすがに無機物との結婚までは認められていない。
どうしたものか、と思い悩む。
人間のそれ、痴話喧嘩と違って時間が解決してくれることは無い。
大切なことにかぎって忘れっぽいのに、くだらないことにかぎって長く覚えているのだ。悠久を生きる天使からすれば、人間のほうこそ大切なことにかぎって忘れっぽく、くだらないことにかぎって長く覚えている愚かな生き物に見えるのだろう。
一度、拗ねてしまえば、一日が一年でも、それこそ一万年でも――この目で確かめることはできないが、時間経過で機嫌を直すことはない。彼女の心を癒やすのは時間ではなく、あくまで人の――俺の心だ。
「ノエル、なにか欲しいものはないか? なんでも買ってやるぞ?」
「ノエルは愛が欲しいのです。愛はお金で買えるのですか?」
重い。
衣食住を必要としない存在だからか、物欲ではないものにかぎって強くこだわる。
果たして愛は、お金で買えるものなのだろうか。と自身に問う。
「買えるぞ。愛はお金で買えるものだ」
俺の答えに、天の岩戸が勢いよく開いた。
「ノエルのお小遣いで、そーちゃんの愛を買うのです!! お幾らなのですか!?」
「俺の愛は1時間あたり1万圓といったところだな。土日祝日は高くなるが、平日の昼なら割引価格もあるぞ?」
「買ったのです!! ノエルのお小遣い5000圓で、そーちゃんの愛を30分だけ買うのです!!」
無償の愛という言葉がこの世にはあるのだから、有償の愛もこの世にはあるはずだ。
おもに銀座や新宿の夜の街、美男美女がそろったお店には売るほど転がっているはずだ。
「きょ、今日は平日の昼なので割引価格ですから……1時間で5000圓になります」
「1時間!! ノエルは買うのです!! いまなら、そーちゃんの愛がお買い得なのです!!」
やめてくれ、そんな真っすぐな瞳で俺を見つめないでくれ。
子供からなけなしの小遣いを奪ったようで、心が痛い。
ノエルが一時間ぽっきり5000圓の愛で選んだのは、昼下がりの店外デートだった。
店外デートといっても、武蔵小金井のことだ。新宿や池袋のように遊び回れる派手な施設もない。手を繋いで歩くだけの散歩になる。それでも幸せだとノエルが言うのだから、彼女は幸せなのだろう。
彼女が着る服は、ショーウィンドウで見かけたマネキンのワンセットを、「これください」と指さして選んだものだ。俺には春物と秋物の違いも分からないし、着ているノエルにいたっては、灼熱の南極と極寒の北極の違いさえわからないのだから、もしかすると世間の流行からは浮いているのかもしれない。
女性の衣類は、旬が短すぎる。
一年たてば流行遅れで、三年すれば化石も同然だ。
外気温に合わせて着られればいい男の精神では、どうにも追い付けない速度がある。
家の外を連れ歩くのだから、せめて恥ずかしくない格好をさせてやりたいとは思うのだが、男親に女性のファッションセンスを求めるのは酷というものだ。と自分に言い訳を聞かせた。
そもそも、女性の一番に美しい服装は全裸だ。次点で下着。男性視点からすると、それこそがこの世の真理である。フェチズムに偏った男性からすると異論はあるのだろうが、世の一般的男性の感覚からすると、世界の真理はやはり全裸に落ち着くものだ。
彼女にそんな恰好で外を歩かせるつもりはないが、女性が語る可愛い衣服とは、男性の真理からいささか遠すぎるところにあった。つまり、理解不能だ。
どんな衣服でも、サイズさえ合うなら似合ってしまうというのもある。大きすぎてぶかぶかでも、それはそれで可愛いのだと思う。身内の贔屓目ではなく、天使とは、そういうものなのだ。
フリルにまみれたひらひらのドレスでも、タンクトップにデニムのホットパンツでも、いっそ男物の服装であっても、ノエルの容姿は通りがかりの衆目を集めてしまう。そして六芒星、ダビデの星の白い腕章を目にして、「ああ、天使か」と誰もが彼女の美しさに納得するのだ。
可愛いは正義と過去の偉人は――それが誰かは知らないが、言った。
だが、度がすぎた正義はかえって悪に繋がるものだ。
この頃の帝都では、天使を誘拐する事件が頻発していると聞く。
理由はそれぞれだが、犯行の原因はひとえに天使たちの美しさに起因する。
彼女たちを自分だけのものに、と考えてしまう人間は多い。
あるいは、俺のそばにノエルが居なければ、彼らの気持ちを理解できたのかもしれない。
「そーちゃん、白いお花が咲いているのです」
「それは白詰草だな。生命力が強く、日本でも大陸でも見られる春の花だ」
沿道、いまだ家が建てられる予定のない空き地では、草花が春を謳歌していた。
そのひとつで足を止め、ノエルは興味深そうに見つめる。
空を飛ぶ天使にとって、地上の草花など目に入らない存在だったのかもしれない。
小さな花を愛でるノエルのすがたは、とても少女らしくて、
「そーちゃん、ノエルと白詰草さんのどちらが可愛いですか?」
違った。
小首をかしげて俺の顔を見上げる。
「……それを、俺に言えと?」
「ノエルはお金で愛を買ったのです。そーちゃんに愛があるなら言えるはずなのです」
「ノエルのほうが、可愛いと、思います」
歯が、浮く。
むふー、とノエルは満足した表情を浮かべ、俺の腕に強く抱き着いてきた。
俺の言葉を聞いた白詰草は、気分を悪くしたことだろう。――すまないと思う。
己の愛を金で売り飛ばした哀れな男の戯言だと思い聞き逃して欲しい。
「ところで今日は、どこに行くんだ? 図書館で新しい絵本でも借りてくるのか?」
「今日のノエルはコンビニ屋さんに行くのです」
「コンビニ? どうしてまた?」
「いっつもいっつも、そーちゃんにお弁当を買わせるコンビニ屋さんに文句を言ってやるのです。そーちゃんのお世話はノエルのお仕事だと教えてやるのです!!」
「営業妨害は、やめような」
「ダメなのです。そーちゃんの愛はノエルのものなのです。コンビニ屋さんのセラちゃんに、もうお弁当を買わせないよう怒ってやるのです!! さあ、行くのです!!」
気が進まない、どころではない。
そんなことをされたら、もう、お店に行けない。
なんとか気を逸らそうと提案してみるのだが、今日のノエルの決意は堅かった。愛という免罪符を得た彼女に、もはや恐れるものはない。愛は人を強くするとの過去の偉人も――それが誰かは知らないが、言った。そして愛は天使も強くするものらしい、と俺は思った。