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006


 武蔵小金井駅から西へ、西へ。歩くにつれて生活の明かりが消えていく。すでに電車も終わった時間なのだから明かりが無いのも当然なのだが、人の生活感、といったものが徐々に失われていく。写真を撮ってここが帝都だと紹介しても、嘘だ、と言われるような空虚があった。


 ≪中央≫の再都市化計画にも関わらず、この土地に人が根付かないのは、この一帯がひとつの巨大な墓所であるからだ。街と共に人が焼け、人と共に天使が焼け落ちた。残された石壁には人のかたちの影が焼きついて離れないと世間の噂だ。それは無い、と断言できる。使われた炎はコンクリートの沸点を優に超え、蒸発と昇華の境目さえ世界に忘れさせる灼熱だった。


 炎が通り過ぎたあとには一面は平らに、表面は硝子に覆われていた。


 すべてが失われてしまったほうが都市計画は進めやすいもので、碁盤状、賽の目に切られた土地区画は、失われた古都京都に似る。札幌の街にも似るのだが、あちらは商用ビルが立ち並ぶ大都会であり、武蔵小金井は帝都の住民を眠らせるための住宅街(ベッドタウン)だ。


 道幅は太く、計算され、渋滞に苛立ちを覚えることもない。

 公園に図書館、学校といった公共施設も充実し、子供を育てるにも良い環境だ。


 それでもなお、この土地に人は根付かない。根付こうとしない。どこかに後ろめたさがあるのだ。かつてこの土地に住んでいた人々の屍の上に住居を構えるような、ぞっとしない後ろめたさを心のどこかに感じるのだ。


 点々とたたずむ路上の神、信号機は黄色と赤に明滅していた。黄色は、気をつけて進め。赤色は、もっと気をつけて進めを意味する。彼――でいいのか? に導びかれるままに、右へ左へ、それから真っすぐに足を進める。


 やがて見えてくるのは我が家の明かりだ。


 いまどき珍しい二階を持たない平屋建て。木造。囲う生垣の背は高く、外から人の生活を覗き見ることは難しい。秋には実と花をつける金木犀キンモクセイだが、春先のいまはただ緑の葉の一色で、ほかのものと見分けがつかない。子供時代を過ごした生家のなかで一番に記憶に残るのが、この金木犀の香りだった。


 ただ父は、「失敗だ」と悔いていたし、母は、「洗濯物に匂いが移る」と嫌っていた。


 四六時中、昼も夜もなく、金木犀の香りを浴びることになれば、それはそうだと家を建てる前に気づくべきなのだが、文句を言うべき曾祖父の父は、とっくの昔にあの世である。両隣に家がなく、風通しさえよければ四面の生垣も良いものだが、隣にふたつ、後ろにひとつ、他人の家が立ってしまえば、場は、風と香りの吹き溜まりになるものだった。


 四面に金木犀の生垣を、と注文したとき設計に携わった建築家が、少しばかり苦笑いを浮かべたことをよく覚えている。金木犀にオスメスがあることも、その時に知った。黄色い花で秋に実がなると説明したとき、少しだけ不思議を浮かべた。日本には実がならない雄株しかなく、生家の金木犀は人と人との戦争のどさくさに紛れて大陸から持ち帰った一本の雌株であったらしい。


 代々、ろくなことをしでかさない家系なのだな、と血の繋がりを自覚した。


 戦争のなかで焼け落ちた生家を再現した我が家は、どことなく似て、どことなく違う。頼るべきは子供時代の記憶のみだった。ある部屋はとても大きく、ある部屋は極端に小さく、これを図面に書き起こすと、空間を操る奇跡でも使わなければ建築不可能な騙し絵の家になった。


 玄人プロの手で修正が加えられた我が家は、記憶のそれとは大違いなのだが、よし、としなければならないのだろう。子供のころに見たとんでもないものが、大人になればなんでもないものになるのは、よくある話だ。大人になると昆虫に触れられなくなる、その逆だ。


 緑の葉の香りを横切り、玄関までの道を歩く。

 ここだけは大きく違うのが、カメラ付きのインターホンとさく鉄扉てっぴだ。

 インターホンのボタンを押せば、かすかに家のなかでも鳴り響いているのが聞こえた。


「はい、ノエルです。どちらさまですか?」とノエルの声。


「俺だ、俺。いま、帰ったところだ。玄関の鍵を開けてくれ」


「俺さんですか? ――俺さんは、ノエルの知らない人なのです。帰ってください。ノエルは、お家を守る大切な使命を、そーちゃんから託されているのです。だから、俺さんのことはお家に入れられません。ごめんなさい」


 我が家のホームセキュリティーは完璧だ。

 完璧すぎて、家主ですら入れて貰えない。


「俺さんじゃない。俺だ。総一郎だ。画面(モニター)を見れば分るだろう?」


「むむむ……暗くてよくわからないのです。本当に、本当のそーちゃんなのですか? ノエルを騙そうとする悪い狼さんではないのですか? ノエルは絵本で見たのです。ノエルは、あんまり美味しくないのですよ。……美味しいのですか? ノエルはノエルを食べたことがないので、よく分からないのです。いま食べてみるのです。ちょっと待っててくださいなのです」


「ちょっと待つのはお前だ。自分の味を確かめようとするんじゃない。ほら、合言葉を決めただろう?」


「そうです、合言葉があったのです!! 合言葉は、山!!」


「マウンテン!!」


「そーちゃんなのです!!」


 秒で開いた。

 我が家のホームセキュリティは、わりと穴だらけなのかもしれない。

 鉄壁の節穴を抜けると、そこはもう温かな光がまつ我が家だった。


 トトト、床を駆ける軽い足取りの音。玄関口で靴を脱ぎ終わることさえ待ち遠しいと足音が語る。()きとおりすぎて血の流れさえ見えそうな白い肌。金糸に灰を練りこんだ銀色の髪(アッシュブロンド)が揺れる。瞳は碧。小柄な俺よりも、さらに小さな身体が床を強く蹴った。


「そーちゃん! おかえりなさい!!」


 満面の笑みが胸元に飛び込んできて、一瞬、顔面からぶつかる彼女のほうが痛いんじゃないのか心配になる。できるかぎり勢いを殺したけれど、それでも確かな重量感が胸に衝突して、伸びた二本の細い腕が俺の背中でしっかりと結ばれる。


「ただいま、ノエル。今日も大丈夫だったかい?」


「はい、ノエルは今日も、そーちゃんのお家を守り抜きました!!」


 胸元から見上げるかたちで向けられた笑顔に、「ありがとう」と答える。銀色の髪を手櫛でいて頭を撫でると、楽しげな笑顔に嬉しさが混じって、とろり、表情を蕩けさせる。それはわずかに色気づいて見えて、けれど、とても子供っぽい。


 いま、初恋を覚えましたといった彼女の表情に、俺の表情もつられて柔らかくなる。


 彼女が胸元に抱き着いて離れないものだから、俺の手櫛がさんざんに彼女の髪を乱れさせていく。


 ずっとこうして居たいけれど、ノエルにはできるのかもしれないけれど、俺には無理だ。一日を電車の中で過ごし、あるかないかの出動要請を待ちながら環状の山手線をぐるぐると、朝の始まりから夜の終わりまで、電車の終わりまでをそうして過ごした俺には、心の休憩のほかに、体を休める必要があった。


 けれども、もう少しだけこのままで、とも思う。

 だが、珍しいことに今日はノエルの側から抱き着くのをやめた。

 俺が不思議に首を傾げると、


「そーちゃん、その袋はなんですか?」


 と来た。

 じつにまずい。


「これは、その……プリンだ」


「プリン!! でも、プリンにしては大きいのです。ノエルの目は誤魔化せません」


「それから、コンビニの弁当」


「お弁当!?」


 天国から地獄へ、希望から絶望へ、プリンから弁当へ、ノエルの表情は忙しい。

 手に提げたレジ袋に視線を落とし、やがて見上げ、俺の目をじっと見つめ、瞳の端に涙。

 その捨てられた子犬のような表情は――ずるい。


「そーちゃんは、ノエルのことを信じていないのですか?」


「俺はノエルを信じてるよ。心の底から信じてる」


「ノエルのお料理が、美味しくないからですか?」


「美味しいよ。ノエルの作るご飯は、とても美味しいよ」


 俺の言葉に嘘はない。

 十回に一回くらいは、という一言をうっかりと故意につけ忘れただけである。


「ノエルは、ハンバーグさんを作って、そーちゃんの帰りを待っていたのです」


「楽しみだ! ああ、楽しみだな!! ハンバーグは大好きなんだ!!」


「……ほんとです?」


「本当だ」


 たったいま、大好物になったばかりだけれど本当だ。


「それじゃあ、ノエルと一緒に食べるのです。いま、ハンバーグさんは絶賛炎上中なのです」


「そっかー、絶賛炎上中なのかー」


 テレビかなにかで、また奇妙な知識を拾ってきたらしい。

 ノエルと暮らすようになって、教育上あまりよろしくないテレビを見せたがらない親の気持ちが俺にも分かるようになった。――ん? 絶賛炎上中?


「ノエル? ハンバーグさんは絶賛炎上中なんだよな。――今も?」


「はい、今もフライパンのうえで絶賛炎上中なのです。ハンバーグさんを炎上させている途中で、そーちゃんが帰ってきたのです」


「なるほど、だから、焦げ臭いのか……」


「焦げ? …………絶賛炎上中なのです! お家が火事です! お水! お水なのです!!」


 顔を蒼褪めさせたノエルが走り去った先、台所から、この世の終わりのような悲鳴が聞こえてきた。どうやら今晩も、コンビニ弁当は無駄にならずにすんだらしい。良かったのやら、悪かったのやら。――今晩は、タイミングが悪かった。ということにしておこうと思った。




 ノエルは天使だ。

 ノエルは天使なのだ。


 出会いは戦場、といっても、敵味方として遭遇したわけではない。初めて出会ったときからノエルには翼が無かった。当時の上官が、「新品だ。好きに使え」と俺の前に連れてきた。天使の象徴である翼を(むし)り取られたというのに、彼女は笑顔だった。気持ち悪い、と思った。


 華奢(きゃしゃ)な体つきの多い天使のなかでも、とくべつに小さな背丈が、俺の背丈に対してぴったりだとでも思われたのだろう。失礼な話だ。だが、戦争が終わった今でもこうして、ノエルは俺の傍で暮らしている。


 ノエル、天使、彼女たちは奉仕することに喜びを覚える。より具体的に言えば、誰かを喜ばせることに喜びを覚える。だから、喜ばせることに失敗すれば落ち込みもする。居間の片隅では三角座りしたノエルが畳の目の数をかそえていた。じつに分かりやすい落ち込み方だ。


 フライパンのうえの肉は、炭火になっていた。料理の本を開いて、なんどもなんども読み返しながら、今日の一日を使った大作だったに違いない。――食の安全は保証されない。それが、5分や10分のあいだに台無しになってしまえば落ち込みもする。俺だって、そうだろう。


 彼女が落ち込んでいるのは、あるいは、俺が落ち込んでいるせいなのかもしれない。

 人とともに笑い、人とともに泣く、それが天使という存在である。


「そーちゃんは、ノエルに怒っていますか?」


「怒ってないよ」


「そーちゃんは、ノエルに失望しましたか?」


「失望してないよ」


「そーちゃんは、ノエルに一緒に居て欲しいと思いますか?」


「一緒に居て欲しいと思うよ」


「ハンバーグが作れないノエルでも?」


「ハンバーグが作れないノエルでも、だよ」


 俺の言葉に嘘はない。

 そもそも彼女たちは、人のかたちをした天上の兵器である。


 超高性能の人工知能を搭載した自律型戦車に、ハンバーグを作れ、と命令してもうまくいくはずがない。挽肉を造るのは得意だろう。だから俺はノエルに失望などしていない。――最初から期待さえしていない。当然だ。俺は彼女に、失望することさえできないでいるのだ。


 畳の目を数える指先が止まっていた。

 ちらり、俺のほうを振り返ったノエルの視線が頬に触れる。


 彼女は俺のなかにどんな感情を見つけたのだろうか、ゆっくりと立ち上がり、そばまでやってきて、ノエルが機嫌を直すのを座りながら待っていた俺の頭を胸元に抱き寄せ、なぜだか俺の頭をゆっくりと慰めるかのように撫でまわす。――これでは、あべこべだろう。と思う。


 あべこべだ、と思いながらも、させるがままに、されるがままに、身と成り行きを任せた。


 5分、10分、やがてノエルは満足したのか、


「そーちゃん、安心したのです?」


 と心配の表情で尋ねてくる。


「ああ、安心したよ」と答えれば、ノエルはにっこりと満足げな笑顔を見せた。


 まるで自分が落ち込んでいたことをすっかりと忘れてしまったかのように――いや、忘れてしまっているのだろう。天使は、良くも悪くも短絡的だ。まるでそれが永遠を生きる秘訣であるかのように、覚える端から忘れていく。だから毎日を新鮮でいられる。――羨ましいかぎりだ。


「お腹がぺこぺこだと元気がでないのです。そーちゃんは、ノエルと一緒にお弁当を食べるのです。お腹がいっぱいだと元気がでるのですよ」


 確かに、ノエルの言うとおり俺の胃袋のなかは空っぽだった。

 空腹こそが最高の調味料だと昔の偉い人も――それが誰かは知らないが、言っている。


 なにも、ノエルの料理が不味いというわけではない。食べるのには少しばかりの勇気と大いなる空腹が必要というだけのことだ。たまには美味しい。十回に一回は食べ物の味がする。


 天使には食事の必要が無いからか、味覚が存在しない。正確に言えば、味覚は存在するが美味しいや不味いの基準が無い。だからノエルの作る料理はつねに味覚がもつ未知の領域への挑戦となるのだ。――食べるのは俺だ。


「そうだな。お腹が減ると元気がなくなるものな。それじゃあコンビニ弁当を、」


 やっとご飯にありつけるようだ。

 とでも思ったか? ――バカめ。


「ノエルがお味噌汁を作るのです!!」


「…………え?」


「お味噌汁! お味噌汁!」と意気揚々、台所という名の戦場へ挑もうとする彼女を、いったい誰が止められただろうか。少なくとも、それは俺ではない。


 この長い夜は、まだもう少しだけ続くようだった。




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― 新着の感想 ―
[一言] なんてこった。 なんてこった! 新作が来てるじゃないか! 今でも少年Zと有人島を読み返している高田田さんの新作が。 面白い。 これからも応援してます
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