010
秋葉原、その周辺一帯は、江戸の昔から妖しげなものたちの吹き溜まりとされてきた。江戸城から見て北東、不吉が訪れる丑寅の方角からの氣を水堀で堰き止めたからか、土地には淀みが生まれ、善いも悪いも混然一体とした風景が広がるようになった。
江戸が東京になり、東京が帝都となった今でも、秋葉原の本質に変化は無い。かぎりない混沌だ。そして混沌であるがゆえの他の土地にはない活力に満ちている。間違った方向への情熱から生まれる世界の主流から外れた異形たちで、秋葉原の街は今日も賑わっていた。
この街では、天使が独りで歩く姿も珍しくはない。
秋葉原という街全体が、天使の存在を容認しているのだ。
そんな天使を捕まえて、「天使ちゃん、マジ天使」という当たり前の言葉が飛び交うのは理解し難いものがある。天使は天使だ。マジも本当も無いだろう。それに、被写体としてカメラのレンズが捉えているのは、天使の衣装をまとった人間の女性である。――俺にはすべてが理解不能だ。
一方で天使は、尻尾と蝙蝠の羽を生やして、「小悪魔天使ちゃん、マジ天使!」と一言のうちに三つは矛盾をはらんだ言葉で賞賛されているのだから――俺にはすべてがマジ理解不能だ。
混沌。
秋葉原の街をあらわすのに、これ以上に相応しい言葉は無いのだろう。
中央線から乗り換えること総武線で一駅、駅のホームに降りたときから、秋葉原特有の陰気な陽気が感じられた。風水では陰中の陽とされる秋葉原の街は、業界の人間からは活気ある闇と呼ばれる。どこまでも支離滅裂が続く街なのだが、かえってそれが人間らしいとも思えた。
南は神田、北は御徒町へと続く主幹道は、文化のメインストリームから外れたサブカルチャーに溢れている。サブカルチャーのなかにも王道と言うものはあり、サブカルチャーからも外れた更なるサブカルチャーが、秋葉原の路地裏にはひっそりと息づいていた。
さらに深く、さらに深く、表の地図には載っていない未登録の路地を抜けると、ビルとビルの隙間にぽつりと立つのが奇操堂である。瓦葺の日本家屋。ひと昔、ふた昔まえの建屋の作りは、どこかしら我が家を思わせる。玄関先には屋号の書かれた暖簾と木の看板。看板には、「奇跡に不思議、万ごと承り〼」と書かれている。
地図上では、どう計算しても存在しえないその建物は、資格あるものにしかたどり着けないと言われている。たしかに雰囲気はあるが、客を選ぶのは商売人としてどうなんだ。とも思う。
俺は気になり、「固定資産税は払っているのか?」と聞いたことがある。返事は半泣きの苦笑いで、どんな不思議の住人も、税金の手からは逃れられないことを知った。
暖簾をくぐると、なかは用途不明の工芸品に溢れている。知らず店に入ったなら、民芸品の土産物屋と勘違いするに違いない。俺が店に足を踏み入れると、ちょうど店番の娘が、はたきとレンチを手に――何をしているのだろう? あいかわらずの理解不能だ。
「親父さんはいるか?」と声を掛ければ、
「いないよ」と返ってくる。
俺は帰ることにした。
「総一郎さん、待って、ここにはボクが居るんだよ!」
「居るな。だから帰るんだよ。また、ボッタくられてはたまらんからな」
「いったいいつ、ボクがそんな商売をしたっていうのさ?」
「毎回だ。1を頼めば10を作って、100の値段で売りつけてくるだろう?」
「それはボクの職人としての魂がそうさせるんだよ。100の値段っていうけど開発費用込みの値段なんだから、それは適正価格だよ。魔法と科学の進歩は、トライアンドエラーの積み重ね。失敗作の山のうえにこそ成功はあるものなのさ」
「俺は、1が欲しいんだ。1以外は要らないんだ。俺は、他人が積みあげた開発費用の上澄みの成果だけを安値でかすめ取りたいんだ。わかるか?」
「総一郎さんがカッコいい顔して、とてもカッコ悪いこと言ってるよ……」
奇操キクリ、奇操堂の何代目になるか自分でも知らない跡継ぎ娘だ。年頃の女の子だというのにタンクトップにオーバーオールと色気に欠ける。マニア向けだ。そんな彼女は軍手で汗をぬぐっては、せっかくの可愛い顔を機械油で汚していた。
どこから見ても自動車整備工なのだが、これで当代きっての魔女というのだから、世の中は間違っている。
だが、秋葉原の魔女なのだ。
おそらくは、魔女の本流からもはずれた外道の存在なのだろう。
外道から見て外道ということは、裏の裏、表を意味しない。もはや理解不能な何かだ。
まっとうに、あるいは外道に生きる人間なら、出逢わないほうが良いに違いなかった。
奇操堂を見つられる人間は、心のなかに光と闇を、大きな矛盾と混沌を抱えたものだけだと言われる。――あとは税務局員だ。
「そういうわけだから、帰るぞ。ノエル」
「ノエルお姉ちゃん? 今日は、ノエルお姉ちゃんも来てるの?」
「はい、ノエルも来ているのです。ですがノエルは天使、キクリちゃんは魔女、ともに天を戴くことはできない運命なのです。邪悪な魔女は、滅ぶのです!!」
「ボクは邪悪じゃないよ?」
「邪悪じゃなくても滅ぶのです!!」
天使と魔女の組み合わせは、どう考えても悪いと思うのだが、この二人は仲が良い。ノエルに人間的な友情があるのかは分からないが、顔を合わせれば仲良くじゃれあう程には息があう。これも、秋葉原の魔女だからなのだろうか?
玄関先に置いてきたノエルが、手を斜め十字に構えて入ってきた。あれは、十字架? ――いや、なにかプロレス的なもののマネだろう。じりじりと間合いを詰めて、キクリにとびかかるつもりらしい。
「ノエルを、以前のノエルと同じに思われては困るのです。ノエルは毎日テレビを見ながら必殺技の特訓をしてきたのです。その名も、フライング・エンジェル・クロスチョップ。当たると痛いのですよ? 泣いて謝るなら、いまのうちなのですよ?」
「ボクも、以前のボクと同じに思われたら困るのかな?」
「ほほう、キクリちゃんも成長したのですか。いったい、どこが変わったというのです?」
「胸周りがねー。これでボクも成長期なのかな? ブラのサイズがAからBに……」
「負けたのです!! ノエルは女として負けたのです!!」
うちの天使は敗北が早いな。
大きければ勝ちと言うわけでもないだろうに。大切なのは――大きさだな。うん。
心が折れたらしいノエルは――服が汚れるからやめなさい、店の床に両手をつけて見るからに落ち込んでいた。
「それで、総一郎さんはボクに何の用?」
「俺が用なのはおやじさんで、キクリじゃあない。お前には無理な相談だ」
むっ、とした表情を隠さないのは若さの証明だ。脇の甘さともいう。
魔女も商売人の端くれならば、腹芸のひとつも覚えなければやっていけないだろうに。
だが、秋葉原の魔女っ子は性根がまっすぐだ。
「キレイは汚い、汚いはキレイ、可能を不可能に、不可能を可能にするのが魔法の奥義。奇操万年堂本舗の跡継ぎ娘として、ボクはその言葉は聞き逃せないんだよ!」
「言ったな?」
「言ったよ!」
「その言葉に二言はないな?」
「江戸っ子に二言はないよ!」
魔女っ子だったり江戸っ子だったり、相変わらず忙しい奴だ。
だがこれで言質は取れた。
「今日、用事があるのは俺じゃあない。頼み事があるのは、ノエルのほうなんだ」
「ノエルお姉ちゃんが、ボクに頼み事?」
天使が魔女に頼み事など天地開闢以来、驚天動地のできごとだろう。
だが、この街は秋葉原だ。そういうことも、ときにはある。
「ノエルはキクリちゃんに、セラちゃんを見つけるための道具を造って欲しいのです」
「セラ、というのは天使だ。見つける、というのは居ないということだ。造ってほしい、というのは俺の携行端末機は使えないということだ。――事情は理解できたか?」
ノエルの言葉が足りないのはいつものことなので、俺がフォローする。
今回、依頼を受けたのはノエルであって、俺ではない。
ここのところを間違えると、ノエルに叱られる。――とても理不尽だと思う。
「つまり、ボクにさらわれたお姫様を助けるための魔法の杖を造って欲しいんだね?」
「その通りだが、キクリには無理だろう?」
「むっ、今日の総一郎さんは、いつにも増して失礼だね。そんなことくらい、ボクの手にかかれば朝飯前なんだよ。心の広いボクが、ノエルお姉ちゃんのお願いを叶えてあげるよ」
キクリは、まるで俺が常に失礼であるかのように言う。
俺は実年齢相応の態度をとっているつもりなのだが、失礼に見られるのは外見が若いせいなのだろうか。きっとそうだ。
だがしかし、だ。
「だそうだ。良かったな、ノエル。さあ、お願いしろ」
床に手をついていたノエルが、むくり、と立ち上がる。
そして、人を疑うことを知らない無垢な瞳が、奇操キクリの瞳をまっすぐに捉えた。
「キクリちゃんにお願いなのです。セラちゃんを見つける道具を造ってくださいなのです。これがノエルに残された全財産なのです! このお金でお願いするのです!!」
と、突き出された手のひらには、500圓玉が一枚。
ぴたり、と、キクリの表情が固まった。
「……総一郎さん?」
「ちなみに今日の俺は、ただの付き添いだ。セラヴァーナ……天使を見つけたいのはノエルであって、俺ではない。だから仕事の依頼人はノエルになる。ああ、これはセラが着ていた店の制服だ。なにかの足しになると思って貰ってきた。さあ、受け取れ」
「さあ受け取れ、じゃないよ。いくらボクが魔女でも出来ることと出来ないことが……」
「できないのですか? キクリちゃんには不可能なのですか? 可能を不可能に、不可能を可能にするのが魔法なのではないのですか? キクリちゃんは、ノエルに嘘をついたのですか?」
天使のまっすぐな瞳は、便利だ。
人の良心を掻き立てるものがある。
「そ、総一郎さんからも何か言ってよ……」
「すべて打ち合わせ通りだ。名演だったぞ、ノエル」
「えへへ、そーちゃんはノエルの頭を撫でなでしても良いのですよ?」
騙された、というキクリの顔に向かってとどめを刺す。
これが慈悲の一撃というやつだ。
「奇麗は汚い、汚いは奇麗、可能を不可能に、不可能を可能にするのは詐欺の手口だ。騙されるほうが悪い。俺も江戸っ子だ。勉強代の釣りはいらない、とっておけ」
「そんな姑息な江戸っ子は、この世に存在しないんだよ!?」
悔し気に歯噛みしながら、それでも依頼を断れないあたり、奇操キクリは江戸っ子で魔女っ子なのだろう。魔女である彼女は、契約にはうるさい。そして江戸っ子は、切符がよくて脇が甘い。最悪の組み合わせだと思うのだが、だからこそ秋葉原などで魔女をしているのだろう。
大陸の西の果てには、かつて魔女狩りの時代があった。狩られたのは誠実で善良な魔女たちだった、逃げ延びたのは狡知に長ける邪悪な魔女たちだった。いまの魔女のイメージを作り上げた原因が魔女狩りにあったというのは皮肉なものだ。あるいは、正義と奇跡は自分たちの専売特許であるという、一つの宗教の企みどおりであったのかも知れない。もはや確かめる術もない。
江戸の昔、欧州から逃げ延びてきた血の一滴が、奇操の祖といわれている。
奇操の家系図には平賀源内の名前も書かれているのだが、これはさすがに眉唾だろう。
さらにエジソン、アインシュタイン、フリーマン博士と著名人の名前が続けば、この家系図は燃やしたほうが良い気がした。現代天使工学の父、フリーマン博士などはいまだ存命だ。罰当たりにもほどがある家系図をウリエルの炎で燃やそうとしたのだが、泣いて止められた。
「それじゃあ、工房のほうで作ってくるけど、期待はしないでよ?」
「期待する。大いに期待する。さすがは奇操堂の跡継ぎ娘だと唸らせる出来栄えを期待する」
「ノエルも、キクリちゃんに、とっても期待するのです」
「や、やめて欲しいな。そういうの、恥ずかしいぃ……」
奇操キクリは、照れに頬を赤く染める。
彼女は小さい時から変わらず、褒められることに弱い。褒められることが嫌いではないが、弱い。褒めろ、と四六時中うるさいノエルとはまったくの逆だ。かといって、褒めなければ褒めないで拗ねるのだから、これはノエルと同じだった。
奇操堂の客になってから七、八年。当時は父親の足に抱きついて隠れていた内気な少女も、いまでは店を任せられる一人の職人だ。姉のように慕っていたノエルの背丈も追い抜き、もうすぐ一人前の女性になるのだと思えば感慨深いものがある。
「どうしたの、総一郎さん? 顔が笑ってるよ?」
俺の親心にも似た視線に気がついたのだろう。
キクリが俺の顔を見つめて、にっこりとほほ笑みを返す。
その表情は淑女と呼ぶには早いが、もうすぐ少女と呼ばれる季節を卒業するようだった。
「いや、キクリも大きくなったんだなぁと思ってな」
「その発言はセクハラなんだよ!? 総一郎さん!!」
両腕で、ぱっと胸元を隠して顔を真っ赤に染め上げる。
確かにそれは、大人の女性の反応ではあるのだが。
「……いや、胸の話ではない。違うぞ。本当だぞ?」




