行商人3
行商人の屋敷に着くと、イシュルは2階の1番奥の部屋に案内された。
「ここは長らく使ってない部屋だ。好きに住んでくれて構わないよ」
にこにこと笑みを浮かべて言う行商人に、イシュルは見る人を安心させる微笑みを返す。
「本当にありがとうございます。なんとお礼を言ったら良いか…」
「そんなにかしこまることはない! 私はちょっと仕事があるから今から家を空けるが、用心棒が1人いるから心配することは無い。安心していてくれ」
そう言うと行商人は扉を閉じかけて、ふとイシュルへ向き直った。
「そう言えば、君の名前をまだ聞いとらんかったね」
「申し遅れました。レインと申します」
「レインか、良い名だな。…それじゃあ」
行商人が扉を閉め、その気配が1階へ消えていったのを確認すると、イシュルは軽くため息をついて荷物を下ろした。
息を吐くように適当な偽名を名乗ったのは、万が一を考えてのことだ。
イシュルは、あの男が自分の容姿に目が眩んだことに気付いていた。
仕事だと言って、これから奴隷商人に掛け合うつもりか物好きな貴族に打診するつもりなのかは知らないが、何にせよ、イシュルをどうにかしようと思ったら、そこには契約魔法が伴う。
契約魔法は本人の意思にそぐわずとも、血と名前さえあれば実行することが出来る。
もしあの行商人が何らかの手段でイシュルの血を入手したとしても、勝手に契約魔法などかけられないように、保険をかけたにすぎない。
ーーーもっとも、あの行商人、もといそこらの人間では、イシュルに血を流させることなど不可能だろうが。
「風魔法ーー地・空間浄化」
イシュルが意識を集中させると、不思議な色合いの瞳が輝き、ざわりと空気が波打った。
次の瞬間、埃をかぶっていた家具は綺麗に清められ、淀んでいた空気も清涼なものへと変化する。
「うん、暮らしやすくはなったね」
一言で言えば、イシュルにはとんでもない魔法適正があった。
村にいた頃に読んだ書物で、この世界の魔法原理は一通り理解した。
人間には一人一人、魔法適正というものがあり、空気中に漂う魔素と自分の体に流れる血の相性で決まるものらしい。
多少の低級魔法を使える人間なら5〜20程度、魔法を仕事にできる者なら20〜50程度で、50以上ともなれば王族や貴族、神官や、一部の有名な冒険者などにしか存在しない。
とは言っても有史以来、魔法適正が88を超えた者はいないらしく、最も多い数値で4代前の王が88だったそうだ。
魔法適正の数値は専用の魔道具によって計測するため、田舎の村などでは自分の魔法適正を知らぬまま生涯を終える者も多い。
イシュルも魔法適正を測ったことは無いが、なんとなく、自分がとんでもなく高い数値なのではないかということは自覚していた。
本を読み漁って魔法を行使してみた幼いある日、自分の体がやけに魔法に馴染むことを、なんとなく肌で感じたのだ。
そういうわけで、それ以来着々と勉強を続けたイシュルは、大抵の魔法なら難なく使いこなせるようになっていた。
適切な呼吸と詠唱により空気中の魔素を体内に取り込み、自分の血と馴染ませる。
口で言うのは簡単だが、人によっては習得するのに数年かかることもあるという。
魔法属性は火・水・風・土・光・闇・無の7つ。
適正が決められているという訳ではなく、修練を積めば複数の属性を操ることは理論上可能だが、それが出来る者はそう多くない。
何故なら、属性によって取り込む魔素の種類や量が異なるからだ。
例えば火属性を使おうとするなら、火属性に適した魔素だけを空気中から抽出し、呼吸によって取り込み、体内で血と馴染ませる必要がある。
さらに、魔法には大きくわけて天・空・地の3段階があり、これは有り体に言えば魔法の難易度や階級を示す。
天は扱える者も少なく必要な魔素量も膨大で、その代わり魔法威力は地の数十倍から数百倍と言われている。
魔素の種類に加え量までも意のままに調整出来るようになるには相当の才能と努力が必要であり、それゆえ理論上可能なはずの複数属性使用者はあまり存在しない。
いても2、3種類が限度と言ったところだろうか。
綺麗になった部屋を見渡し頷くと、イシュルは最低限の荷物を持って1階へ降りた。
思わぬ面倒な出会いはあったが、イシュルは王都に来て冒険者になろうとしていたのだ。
前世の世界と同じ仕組みなら、とりあえずギルドのような所へ行って登録でもすればいいのだろうか、と考えつつ廊下を歩いていると、前方の扉が開いて人が出てきた。
「どうも」
声をかけると、出てきた少女は驚いたように肩を震わせ、少し動揺したように頷く。
「あ……ああ…話は聞いている。今日から上に住むんだったな」
「ええ、よろしくお願いします」
にこりと微笑むイシュルに、微かに頬を染めつつも気まずそうに目をそらす少女を、イシュルはバレないように目を細めて観察した。
燃えるような赤い髪は腰まで長く、同じ色の瞳は少し勝ち気そうにつり上がっている。
整った顔立ちの美しい少女ではあるが、無骨な鎧と腰にさした剣はよく馴染んでいて、それが見かけだけのものでないことは一目で分かった。
先程行商人が「用心棒がいる」と言っていたのはこの少女のことだろうか。
だとしたら、自分を見て頬を染めるのは、まあ見慣れた反応だとして。
何故こんなにも気まずそうなのか。
イシュルは少し興味を持ち、少女に問いかけた。
「私はレイン。冒険者になりたくて王都に来たんだけど、なにぶん勝手が分からなくて。ギルドのような所へ行けばいいのかな?」
「失礼、私はリフェリアだ。そうだな…大通りに出てから少し右に行って、大きな旗を掲げた建物がそうだ。……だが君は……いや、…健闘を祈る」
そう言って少女ーーリフェリアはイシュルに背を向けると、廊下の奥に消えていった。
妙に歯切れの悪いような、ともすればどこか諦めのようなものを感じたが、考えていても仕方がない。
イシュルはリフェリアの教えの通り、ギルドへ行ってみることにした。