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翌朝、柳井と城に上がると、貴時を待っていたのは、どうでもいい様な書類の山だった。
「これは…。伊達様にお願いするにはあまりに些末な仕事ではないのか…。無礼な…。」
昨夜の酒盛りの雑談で、すっかり仲の良くなった柳井が眉間に皺を寄せて言うと、貴時はいつもの様に笑った。
「位だけ高くとも、どれ程の力量を持っているのかは分からぬもの。簡単な仕事から回してくれたのでしょう。」
貴時はそう言うなり文机に向かい、書類仕事を始めた。
「柳井様は柳井様のお仕事を。」
「はあ…。」
柳井は納得の行かない顔ながらも一礼し、部屋を出て行った。
柳井が出て行くと、貴時は苦笑した。
ーこれで疲弊させて、探られてはマズイ事に触れさせぬ気だな。つまりは困る事があるって事だぜ。面白い。
そして、その書類の山を凄まじい速さで片付けて行った。
昼に柳井が昼食に誘いに来た時、既に書類の山はもう3分の2は片付いていた。
「これは…。流石ですな、伊達様…。」
貴時は顔も上げず、仕事をしたまま柳井に答えた。
「まあ、この程度は。して如何なされた。」
「あっ、昼餉をご一緒に如何かと思いまして…。」
「ああ、それは申し訳ない。もう少しで終わるので、柳井様はいつも通り召し上られよ。私は終わってからに致します。」
柳井は返事もそこそこに、慌てた様子で出て行くと、暫くして、自らも折敷を持ち、後ろにも折敷を持った女中を従えて戻って来た。
「握り飯ならと思いましてな。作らせました。」
貴時はあの笑顔を見せて、顔を上げた。
「これは忝い。」
女中が頬を染めて、貴時の隣に膳を置いた。
「味噌汁と香の物までつけてくれたのか。仕事を増やして申し訳ないな。」
女中は更に恥ずかしそうに俯きながら、チラチラと貴時を見て、何かモゴモゴ言っている。
「後はやる。下がって良い。」
柳井に冷たく言われ、女中が下がると、柳井は不機嫌そうに言った。
「江戸から男前のお役人が来たなどと、女中共があなた様の事を騒ぎ立てておりましてな…。お恥ずかしい限り。」
柳井が茶を淹れながらそう言うのを、貴時は不思議そうに見ている。
「言わせておけばよいではありませんか。」
「ご迷惑でございましょう。江戸には奥方様もおいででしょうし。兎角おなごは仕事の邪魔になり申す。」
「しかし、おなごが居てくれなければ、仕事も滞れば、我らも生まれてはおりませぬぞ。そう邪険になさるな。」
「はあ…。」
柳井は納得が行かない様だ。
屋敷に奥方は居り、娘と息子が1人づついる様ではあったが、一般的な武家同様、柳井に絶対服従といった感じの、息苦しい家庭には感じた。
柳井はかなり真面目な男だ。
真面目過ぎて、堅苦しく、それを本人も気付いていつつも、どう砕けたらいいのか分からず、家庭でも、城内でも煙たがられていると、昨夜、呑みながらポツリと話していた。
貴時は仕事の手を休めずに、握り飯を頬張りながら、わざとあっけらかんと言った。
柳井の落とし所の、取っ掛かりを見つけた気がしたのだ。
「私には妻女はおりません。」
「そう…なのですか…。」
貴時は若く見えるが、年齢は25を過ぎているし、伊達家の家長である。
そして伊達家は、実情を知らない柳井から見ても、江戸城詰めである事から、位は高い事が推察される。
余程の事情が無い限り、嫁を貰って、跡継ぎの1人や2人は設けている筈だった。
「好いたおなごは居るのですが、身分が違い過ぎると、らしくもねえ事言って、嫁に来てくれません。」
「お屋敷の女中か何かなのですか…。」
「いや。芸者です。」
「えっ…。」
柳井が衝撃の余り握り飯を手にしたまま固まってしまうと、貴時はまた屈託なく笑った。
「こういう男ですから、そうお気遣いくださらなくて良い。」
呆れるかと思ったが、柳井は握り飯に口もつけず、しみじみと言った。
「羨ましい…。」
貴時は更に口調を砕けさせて答える。
「あ~、芸者ってえのが?」
「あ、いや。あの…。それもそうですが、そうではなくてですね…!」
珍しく柳井が慌てた様子で取り繕う様を、貴時は優しい笑みを浮かべながら見ている。
「柳井さんも少し自由気ままにやられてみてもいいかもしれませんね。それで人にどう思われようが、いいじゃありませんか。いざとなったら、腹切りゃあいいんだ。侍なんて気楽なもんです。」
「しかし、家が…。」
「必死に我慢して耐え抜いて守ったところで、家なんざ、なんかの拍子に簡単に潰れちまう。
家守ってたって、藩がお取り潰しになったら、家も潰れちまう。一寸先は闇。
だったら、俺ほどでなくても、好き勝手に生きてた方が、後悔しなくて良いんじゃないですかね。
周りも『ああ、あんなもんでいいのかい。』って思うから気楽だ。」
反論するかと思った柳井だったが、何か考えるところがあった様子で、真剣に返して来た。
「そうですな…。あなた様のその人誑しとも言える、誰の心も解してしまう魔性の様な物は、そういった生き方から来ていらっしゃるのかもしれませんな…。だから、周りもよく見えていらっしゃるのだ…。余裕がおありだから…。」
「そう難しく考えちゃいけねえな。ほら、食って食って。聞きてえ事あんだから。」
「はあ。なんでしょう。」
「これだ。城下の村で起きた事件らしいんだが、その後の調べが無え。どっか行っちまってるって事はあんのかい。」
貴時が出したのは、村で奉行所の様な事をしている部署の江戸で言うなら、同心的立場の人間が書いた、調査書の様な物である。
大体は水の取り合いなどの訴訟で、ごちゃごちゃになっていたのを、時系列に纏め、処理していたのだが、この事件だけ、その調書に紛れ込んでいた様だ。
「ーえ~…。庄屋惣田権兵衛が娘、お袖が盆の祭りの夜から行き方知れずと相成り候。村人総出で捜索するも、見つからず…。ですか。」
「うん。で、その先が無え。」
「ーしかし、娘の行き方知れずは、よくある事でございます。男と逃げたというのが、大半の事。これも親が庄屋なだけに騒ぎ立てて、申し立てをしたものの、真相はそんな物だったので、これで終わったのやもしれませぬ。」
「そうかい?」
「はあ。」
「けど、なんか気になんだよ。ここに持って来てあるもんは全部ゴチャゴチャで整理されては居ねえが、ちゃんと揃ってんだ。なのにこれだけポツンだぜ。しかも、よくあると仰ったが、そういった行き方知れずはこの一件だけだ。」
「そうですか…。それは確かに妙ですね。ここの物は全て、藩が調停を行いし記録。よく聞く行き方知れずの申し立てが一件だけというのは、確かに…。」
「だろ?これ終わったら調べて来る。」
「ーは?」
「この書いてある相田村って所行って、調書取った奴に話聞いて、調べてくんだよ。」
「ええ!?そんな事を、伊達様御自ら!?」
「何が御自らだあ。これが俺に本気で頼んで来た仕事なら、俺は徹底的にやるだけだ。柳井さんは付いてこなくていいよ。」
「いえ!私も参ります!伊達様に何かあったら、上様に申し訳が立ちませぬ!腹を切っただけでは済みませぬ!。」
柳井の真剣過ぎる剣幕に苦笑しながら頷き、貴時はまた仕事に戻った。
貴時はそれから四半時後には、全てを終わらせてしまい、柳井の道案内で、馬で相田村に行った。
「おう。ちょいと邪魔するぜ。」
貴時が声をかけながら番所の様な所に入ると、中で書き物をしていたかなりみすぼらしい侍が慌てて立ち上がり、その瞬間にしたたか鴨居に頭を打ち付け、挨拶をする間も無く蹲った。
男は六尺五寸はある大男の様だ。
貴時は心配そうに男の横にしゃがんだ。
「大丈夫かい。ごめんな。脅かしちまった。」
「い、いえ…。上様からのお使いの方がよもやこんな汚い場所においでになるとは思いもかけず…。失礼仕った…。」
「桜井さんだね?」
「はい。」
「この調書を書いた。」
貴時が、例のお袖行方不明事件の調書を見せると、桜井の目に怒りの様な炎が灯った。
「この一件をお調べ下さるのですか!?」
桜井は、柳井を睨みつけながら貴時に聞いた。
睨まれた柳井は訳が分からず、キョトンとしている。
「うーん、隠蔽されちまったのかい?でも、この柳井さんは、その隠蔽には関わっちゃ居ねえよ。俺の権限でしっかり調べっから、順を追って話しちゃくれねえかい。」
「はい…。」
桜井は、何故か直ぐに貴時の事は信用した様だが、柳井に関しては、未だ思う所があるらしく、柳井をチラチラと気にしながら、暗い番所でお茶を淹れながら話し始めた。
「お袖はこの村1番の器量良しでしてな。
父親の惣田権兵衛も目の中に入れても痛くない程のかわいがり様で、他の村々の庄屋の所から縁談が来ていたのも、なんだかんだと理由を付けては、断っておりました。
それが、盆祭りの日に帰って来ないとなったので、某も夜中に叩き起こされ、探し申した。」
「うん。そんで?」
「調べた所、盆祭りには、面を着けた侍が幾人か来ていたのを、村の若いのが何人か見ており、その面を着けた3人が、お袖を取り囲む様にしていたのを見たと申す者も居りました。」
「面を着けた侍か…。そりゃあ、そこそこの身分の奴だろう。でなきゃ、面など手に入らねえ。」
「はい。某もそう思いましてございます。身なりも良かったと聞きました故、下級役人の悪童では無いのではないかと。」
「うん。そんで?」
「はい。この村では、お袖だけでしたが、隣村の合田村、その先の吉田村などでは、かなりの数の娘が行き方知れずとなり、見つかって居らぬと聞きました故、全部を聞いて回ったのです。」
「そらすげえや。立派なもんだ。」
貴時が心から感心した様子で言うと、桜井は嬉しくなったのか、はにかむ様に笑うと、更に上機嫌になって続けた。
「3名程は、親が許さぬ相手の男と出奔したとの事でしたが、後の5名はお袖同様の器量良しで、盆祭りに居なくなっているのです。その時、面を着けた侍3人と一緒にいる所を、全員が見られていました。」
「拐かしだかなんだか知らねえが、下手人は同じ奴って事だな。よく調べたな。そんで?なんでその調べが記録に無えんだい。」
桜井の顔が苦々しげに歪んだ。
「これは、某1人の手には負えぬ大事件と思い、上役の梶原様にご相談申し上げたのです。そしたら…。」
「うん。」
「分かった、調べておくと仰いましたが、一向に埒があきません。
再度お願いに参ると、その様な事実は無かった。そちも忘れよと申されました。
惣田権兵衛の所へ行き、お袖は帰って来て居らぬであろうと聞くと、帰って来た。
お騒がせして申し訳なかった、忘れてくれと申します。お袖に会わせて貰いましたが…。」
「うん。」
「ー気が触れて居りました。話も出来ず、一日中、庭の虫を潰しては笑っているのだそうです…。
権兵衛は泣きながら、なんでもない。どうか忘れてくれと申すばかり。他の村々の娘も、その親も皆そうでした…。」
「握りつぶしやがったな。」
「はい!」
そして、桜井は、矢張り、柳井を睨み付けた。
しかし柳井は目下の桜井を叱る事も無く、沈痛な面持ちで、桜井に頭を下げた。
「かように自らの仕事を懸命に全うしておる者の邪魔立てをするとは…。知らなかったとはいえ、実に申し訳ない…。」
「柳井さんは、主にお蓉の方様のお世話が仕事なんだから、仕方ねえよ。
とはいえ…。
その梶原ってのは、なんで握り潰したのかだ。
娘達6人が、桜井が調べた直後、戻って来たって事は、娘達の拐かしに、梶原が一枚噛んでんのは確かだろう。
柳井さん、梶原ってのは何者だい。」
「私は関わりを持った事はありませぬが、あまりいい話は聞きませぬ。評定所の奉行でありながら、遊女を買っているとか、賭場に出入りしているとかいう噂もあり、何度か辞めさせるべきではと御家老に申し上げては居るのですが…。」
「聞き入れねえと?」
「はい。」
「評定所の奉行の役宅ってえのはどれ程の大きさだい。家族は?」
「梶原の役宅はそう大きくはありません。その上、子供がとても多く、ひしめき合っており、もはや農家だ、侍の家では無いと、誰かが悪口を言っているのを聞いた事がございます。」
「ふーん…。となると、6人もの娘を隠しては置けねえな…。もっとデカイ屋敷を持ってる人間が噛んでんだろう…。桜井、黒幕が居そうだぜ。ここは慎重にいこう。」
「はっ。」
「柳井さん、梶原は代々評定所奉行なのかい。」
「そうですね。梶原の父はまともな御仁でございましたが…。
にしても、給金は良くはありません。
こんな田舎ですから、伊達様もご承知の通り、評定所に持ってこられる事というと、大抵は、村同士の水の奪い合いや、田畑の境などですから。」
「仲が格別いいって奴は居んのかい。」
「ああ…。どうでしょう…。
しかし、御家老の覚えは何故かめでたい様です。
梶原の様な下級役人は、奥へは上がる事は無い筈なのですが、時折、御家老のお宅に出入りしている様だというのを、うちの妻が申しておった気が致します。」
「御妻女が。」
「はい。御家老のお宅は拙宅の三軒先でございまして、その向かいの吉井様の御妻女と、妻が仲良くさせて頂いて居りますので。」
「吉井さんつーのは、どれだっけ…。」
「あ、伊達様は未だお会いになって居られません。勘定奉行をされている方で、とてもお忙しいご様子で。」
「勘定奉行ねえ…。どんな素性の人だい。」
「それが、実は、よく分からないのです。」
「よく分かんねえとは?」
「お蓉の方様がお輿入れとなり、暫くしてからいらした方でございます。」
「御家老との仲は?」
「良くは無いと思われます。不思議な事に、御家老は、吉井様だけには、言いたい事が仰れないのです。」
「ー妙だな。お蓉の方様との関係は?」
「吉井様が入って来られたのは、お蓉の方様とは関係が無いと聞いております。今ですと…。」
「うん。」
「ー申し訳ござらん…。手前には男女間の事は今一つ…。」
貴時が笑い出すと、柳井は恨めしそうに貴時を見つめ、柳井らしくなく、拗ねた様な口ぶりになった。
「噂はあるのです。
吉井様がお蓉の方様の寝所に、夜も更けてからお入りになる所を見たとか申す者も居ります。
お方様が吉井様を見る目が違うとか申す者も居りますが、私はお方様のお側に控えて居りますが、その様な事を見聞きした事は無く!」
「分かった。分かった。ごめんよ、柳井さん。馬鹿にした訳じゃねえんだ。あんたらしいなと思ってさ。そうかい…。成る程な…。」
貴時は少しの間考えると、桜井に言った。
「お袖とやらに会いてえな。親父にも話が聞きてえ。」
「承知致しました。では早速。」
3人は連れ立って、惣田権兵衛の屋敷に向かった。