過去1・この出会いさえ無かったのなら
暑い夏の日差しの中、防風林の松林の中、そこに窓の割れた白いバンがある。
タイヤは4つともパンクして林の中に捨てられている。そのバンの後部座席に座るのは学校の制服姿の少女がひとり。蝉の煩く鳴く声の中、だらしなく力無く、ぐったりとした少女はひとりボソボソと呟いている。
――あぁ、お腹が空いた――
「逃げ出したところでどうにもならない。これが現実の過酷さ、ですか……」
このまま餓えて死んで朽ち果てる、それもまた良いのかもしれない。
悩み苦しみ正気を失い生き続けるよりは、死んで楽になった方がマシなのだろうか。
この世界には恐ろしいものが多すぎる。
立ち向かう力など無い。それを持つ人なんてひとりもいない。
誰も知らない、誰も気がつかない。
「この世界に、人に、私の願う正しさを、期待する方が間違っているのでしょうね……」
それなら、そんな地獄からは、いえ、地獄よりも下の苦界からは、死んで解放される方が、きっと救いなのでしょうね――
少女はぼんやりと呟いている。
「誰もが簡単に自殺を選べるのならば、誰もが気軽に自分を殺せるのなら、イジメも虐待もセクハラもパワハラも無くなりますからね……」
クラスに30人生徒がいたとして、そこにイジメっ子がひとりいたとして。
イジメられた生徒が自殺をすれば、次に次に自分を殺していけば、イジメは無くなる。
クラスの中の29人が自殺すれば、クラスにはイジメっ子はひとりだけ。
そうなればイジメの問題は無くなるというのに。
クラスにひとりぼっちのイジメっ子を想像する。ただひとり取り残されたとき、その人はいったい何を想うのだろうか?
「人の命を間違った大切さで守った結果、人の価値が底辺に落ちていることを、本当に知っている人はどれだけいるのですかね? だけど、もう――」
それも、もう、関係無いですか。
私が死ねば、私は世界とは関係が無くなる。
もはや世界に怯えることも無い。
もはや世界を怖がることも無い。
怖い想いからやっと解放される。
諦めてしまえば、
不条理に怒りを感じることも無い。
異常におぞけを覚えることも無い。
理不尽に苛立つことも無い。
叶わぬ期待に思い悩むことも無い。
それなのに、あぁ、それなのに――
「死ぬのは嫌だと、死にたくないと想うのは、生物の本能ですか? 私の未練なのですか? 叶うのならば――」
死ぬ前に、1度、しあわせというものを感じてみたかったものですね。
もしかしたら、世界がまともであったのならば、私にもしあわせを感じることが、できたのかも、しれないですね――
このままここでこの少女がひとり、寂しく死んでしまえばその後の不幸も悲惨も無かったかもしれない。
このひとりの少女がここで死ねば、797人は彼女に殺されることは無い。
彼女がここから生き延びたことが、後に797人の殺害へと繋がる。
ときに人を助けることが、後の大量殺人という結果を招く。
それは稀な事例、運命の悪戯、世界の皮肉、それこそまるでお伽噺の悪魔の魔法のような出来事。
「お腹、空いてるまふ?」
赤茶色い熊のぬいぐるみが、少女の顔を覗いて訪ねてきた。熊のぬいぐるみのように見えるが首を傾げて少女に言葉をかける。
この出会いが無ければ、少女は餓えて死に、結果として大量殺人者は誕生しなかった。
この出会いがあったからこそ、少女はここで生き延びた。
誰かが死ねば、誰かは殺されない。
誰かが生きれば、誰かは殺される。
少女が幸運にも生き延びることが、この先多数の死者を増やすことに繋がる。
「…………まふ?って、なんですか?」
今は少女は熊のぬいぐるみの言葉に首を傾げるだけだった。
「……ふん、熊のぬいぐるみが喋るなんて、これは幻覚ですね」
「おいらは幻覚じゃ無いまふー」
手をパタパタと振るくまのぬいぐるみ。割れた窓からバンの中に下りてくる。
「少しおいらと話をするまふ」
「私が、赤茶色い熊のぬいぐるみが話しかけてくるなんて、そんな幻を見ることになるとは。私だけはまともだと思ってたのに。残念です」
「だから幻じゃ無いってば」
「まぁ、死ぬ前に見る幻覚としては、話す熊のぬいぐるみとは可愛らしいものですね。子供っぽいというか、幼稚というか。私の中に熊のぬいぐるみとお喋りしたいなんて気持ちがあったとは、自分を信じられなくなりそうです。ふん? 別段、思い残すことも無しと思ってましたが、死ぬ前に誰かに言い残したいことでもありましたか、私?」
「死んだら困るまふー」
「どうして私が死んだらあなたが困るのですか?」
バンの中、天井を見上げる少女のお腹が、クー、と鳴る。
「やっぱり、お腹が空いてるまふー?」
「そうですね。かれこれ30時間、水しか飲んでませんから」
「どうしてそんなことに?」
「家出をして食料を入手できなかったからですが?」
再び少女のお腹が、クー、と鳴る。
少女は虚ろな目で力無く呟く。
「そこの幻覚の赤茶色い熊のぬいぐるみさん」
「だから幻覚じゃ無いってば」
「なにか食べられるものはありませんか?」
「何も持ってないまふー」
「……私の見てる幻覚が、私に優しくしてくれません。マッチ売りの少女だって凍死寸前の夢の中では、お腹いっぱいにご飯を食べて、暖かい暖炉の前で、優しいお婆さんに会えたというのに」
「……まふー、ちょっと待ってるまふ」
赤茶色い熊のぬいぐるみはバンの割れた窓に向かってジャンプ、そのまま外に短い足でテテテと走っていった。
「暑さと空腹のせいとはいえ、存外、私の頭の中はファンタジーでしたか……」
蝉の声の煩い林の中、捨てられたバンの中で弱々しく少女は呟いた。
「ふん、走馬灯とかでつまらない記憶を見せられるよりは、あの熊のぬいぐるみの方が可愛らしくていいですね……」
――それにしても、ずいぶんと久しぶりに誰かと話をしたような、気がしますね。『はい』と『そうですね』と『すみません』以外の単語を口にして会話をしたのは、何年ぶりのことでしょうか?
煩い蝉の声の中、意識が暗く落ちそうになる中に。
「お待たせしたまふー」
気の抜けるような声で少女は目をゆっくりと開く。
「これしか見つけられなかったまふ」
赤茶色い熊のぬいぐるみが差し出すのは黄色い紙包みがひとつ。全国チェーンのハンバーガー店のロゴが見える。
「食べられるまふ?」
少女は手を伸ばして紙包みを受けとる。開いてみると食べかけのハンバーガーが現れる。
「これは?」
「子供が食べてて捨てたものなんだけど……」
3分の1ほど食べられたハンバーガーは残った歯形を見れば小さい。ピクルスがかじられて残っているので、その子供はピクルスが苦手だったのかもしれない。
そんなことを考えながら少女は両手にハンバーガーを持って、
「十分です。ありがとうございます」
熊のぬいぐるみに頭を下げて、
「いただきます」
ハンバーガーにかぶりついた。
ゆっくりゆっくりと少しずつハンバーガーを食べる少女に熊のぬいぐるみが話しかける。
「なんでこんなところでお腹空かせてるまふ?」
「ふん? 私の幻覚なら私の事情など知ってそうなものですが、それとこのハンバーガーを持ってくるあたり、さてはあなたは幻ではありませんね?」
「最初からそう言ってるまふ」
「私も先ほど言いましたが、家出をして食料を入手できなかったから、お腹を空かせていたのですよ」
「家出?」
「聞きたいんですか? 私の家出の理由を?」
「話したくないなら……」
「すみませんが、これを食べ終わるまで待っててくれませんか?」
モソモソと少女はハンバーガーを食べる。こぼれたレタスを指で摘まんで口に入れる。
30時間振りの固形物の摂取に集中する少女。
――ここで急いでがっつくとあとでお腹が痛くなりますからね――
そんなことを考えながら、ゆっくりゆっくりよく噛んでハンバーガーを食べる。
熊のぬいぐるみは黙って少女が食べ終わるのを見上げて待っている。
「ふう、ごちそうさまでした。捨てられててもやはりハンバーガーはハンバーガー。肉は口にすると元気がでますね。くまさん、ありがとうございます。助かりました」
「それは良かったまふ」
「さて、こうして助けてくれたというのは、あなたになにか目的があるのではないですか? あなたが私の都合の良い幻では無いというのなら」
「それは、そうなんだけど」
「ではどうぞ。命を救われたのですからその分は私でできることで恩返しさせていただきます」
「話が早くて助かるまふ」
「女の子の弱ってるところにつけこんで、売春か盗みでもさせようというなら、食べ物を渡す前に先に条件を言いそうなものですが、あなたはそうしないんですね」
「売春? 盗み? ずいぶんと荒んでるまふー。えーと、今後のためにも信頼できる関係になりたいまふ。そのために脅したりとか、弱味を握ったりとかしたくないまふ。ちゃんと話をしたいまふ」
「誠実ですか? マジメなんですか?」
「なんで呆れたように見るまふ?」
「さっきの私を相手に言うこときかせるつもりなら、いろいろやり方がありそうですが?」
「おいらがお願いしたいことは、本人の意思が重要なことまふ。無理強いさせても効果半減というか、上手くいかないまふ」
「ふん? 私の自主性が必要なことですか? いったいどんなことですか?」
赤茶色い熊のぬいぐるみが両手に恭しく指輪を掲げる。
「この指輪をつけて」
「ふむ、この指輪をつけて?」
「魔法少女になって悪夢と戦ってほしいまふ」
「解りました。やりましょう」
「…………」
赤茶色い熊のぬいぐるみはキョトンとした顔で少女を見る。少女はそれを不思議そうに見る。
しばしお互いが相手をまじまじと見つめ合う。蝉の声だけが煩く降り注ぐ。
「くまさん? どうしました?」
「は、話が早くて助かるまふー」
「くまさんは私の命の恩人ですから。くまさんが言うなら売春でも強盗でも詐欺でも密売でも誘拐でも殺人でも死体遺棄でも、なんでもしましょう」
「いや、あの、そんなことはしなくていいから。なんで言うことがいちいち荒んでて物騒なの?」
「今の日本はそんなものですよ? 私の同級生には親に売春を強要されて、その後、自殺したのもいますし」
「……まふー」
少女は小さなくまから指輪をそっと受けとる。
熱い夏、蝉の煩い松林の中、壊れたバンの中で少女は指輪を受けとり指で摘まんで見詰める。