7・選べる道に先は見えなくとも――
アンダーウェアは椅子の上に立つ紺スーツの男を見上げる。
「高碕さん、あなたは何も悪いことはしてないと、違法なことはしてないと言ってたではないですか。それなのに何を謝ることがあるのですか?」
「た、助けてくれ! なんでもするから、許してくれ!」
「ダメですね、高碕さん。命惜しさに口先だけでこの場を逃れたとしても、あなたはまた同じことをするのでしょう。何せ年寄りを騙して奪うことは違法にはなりませんから」
「私だけじゃないぞ! 証券会社ならどこでもやってることだ!」
長谷部も続けて叫ぶ。
「そうよ! 私だってしたくてやってたんじゃないの! 私は社長でも無いの!」
「お二人ともご安心を。証券会社に勤める者も、会計事務所に勤める者も、全て悪として私がこれから殺していきます」
アンダーウェアは二人に向かい笑みを浮かべる。口元だけの笑みで、光を反射しない黒い瞳が全てを飲み込むように。
「すぐにあなた方の同業者が後を追っていきますよ」
「しょ、証券会社に勤めてるってだけで殺すのか? 何人殺すつもりだ?」
「何人でも、何十人でも、何百人でも。この世の悪意を無くすまで」
「そんなことをしても何も変わらないぞ! 証券会社が無ければ経済が破綻するだけだ!」
「お年寄りを騙して金を奪わなければ破綻するような経済ならば、さっさと破綻すればよろしい。知能障害者を騙して財産を奪わなければ崩壊するような社会ならば、さっさと崩壊すればよろしいのです」
「こ、この、人殺し!」
「私の人殺が悪だというのならば、その正義が私を断罪すればよろしい。ですがここには私を止める正義は無いようですね。ならば私の正義は止まらないし、止められません」
ゆっくりと歩いて更に高碕に近づくアンダーウェア。片足を上げて高碕の立つ椅子に足をかける。
「この世に正義を取り戻すために、私は悪を滅ぼします」
「何が正義だ? わ、私が何をしたっていうんだ? やめろ! やめろー!」
「あなたのしてきたことが間違いでは無いと、己は正しいことをしてきたと言うのなら、その職務に誇りを抱いて、己が生きざまに一点の曇り無しと、堂々と人生の最後を迎えて下さい、高碕さん」
「た、頼む、助けてくれ……」
「おやすみなさい、永遠に」
アンダーウェアが高碕の立つ椅子を蹴る。椅子が倒れる。
「あ゛……」
高碕の身体が一瞬、宙に浮き落下。恐怖にひきつった顔のまま、首にかかったロープに高碕の全体重がかかる。ゴキリと音を立てて首関節が脱臼、そのまま高碕の心臓が鼓動を止めて呼吸も止まる。
「首吊りは確実性が高く、痛みも苦しみも少ないそうです。悪人とはいえ人は人。無駄に苦しませるつもりはありません。高碕さん、ちゃんと死ねましたか?」
ロープに吊られ小さく揺れる紺スーツ、目は大きく見開かれて、だらしなく開いた口からは舌が出ている。高碕の死を確認したアンダーウェアはゆるりと顔を長谷部の方に向ける。
「嫌っ! 嫌ぁぁぁ! 死にたくない! 死にたくないぃぃぃぃ!」
椅子の上に立ったまま首を振って暴れた長谷部は、自分の足で椅子を蹴って倒してしまう。
「ぁぐ……」
身体を支える物が無くなり、落ちて首のロープが締まる。頸動脈と脊椎動脈の血流が停止、脳が酸欠になり意識を失う。暴れたせいで振り子のように揺れる赤いスーツの長谷部の身体は力が抜けてだらんと垂れ下がる。
工場の中、クレーンから吊られた二人の首吊り死体が並ぶ。
「最後は石動さん、あなたです。この二人とは違って静かですね」
ジャケット姿の青年、石動は首を回して二人の首吊り死体を見つめる。次に視線を動かしてアンダーウェアを見下ろす。
「……なんか、納得した」
「納得、ですか?」
椅子の上に立つ石動はどこか悟ったような顔をして、震えながら白髪の下着姿の少女を見下ろす。
「あんた、優しいんだな」
「私が優しい、ですか?」
「あぁ、なんで殺されるのか、それを思い知らせてくれたんだろう? わざわざこんなところに連れて来て。問答無用で殺した方が簡単なのに」
「私があなた方に聞きたいことがあったからなのですが」
「悪いことをすれば、その報いを受ける。簡単で、単純なことだ。とてもシンプルで解りやすい。その正義の味方が、下着姿の美少女とは知らなかったが」
石動は過去を振り返るように目をつむる。小さく震えながら呟く。
「こんな最後か、俺の人生は。録でもなかったなぁ……」
――こんな正義が、本当にあるなんて。知っていたら、俺の生き方は変わっていたのか――
目を閉じ覚悟を決める石動。しかし、なかなか最後の時は訪れない。タン、とひとつ足音がする。
「なんだ?」
石動が目を開けると自分の胸の前にロープがある。首にかかったロープの先が刃物で切られた切り口を見せて、ネクタイのように胸の前に垂れ下がる。
「気が変わりました」
声のする方を見ると片手にナイフを持ったアンダーウェアがいる。
「石動さんを殺すのはやめましょう。腕のロープも切りましたよ」
石動は椅子の上に立ったまま手を前に回す。震える腕から切られたロープがポトリと落ちる。足の力が抜けて椅子の上にしゃがみ、そのまま地面にバタリと落ちる。肩から落ちて顔をしかめる。
「痛てて……、なんで?」
「オレオレ詐欺の死体と並べることで、証券会社も会計事務所も詐欺同然というメッセージにするつもりでしたが、」
アンダーウェアはナイフをクルリと回して黒いパンツの中にしまう。
「私の目的のひとつは、悪意を持つ人が悪夢のエサになる前に殺し、悪夢の増殖を防ぐことです」
「ナイトメア? なんだそれは?」
「石動さんのように解ってる方は悪夢の養分になりにくいでしょう。幸いにも石動さんは違法ですし」
「……幸いにも違法って、変な日本語だ」
「そこの殺した二人とは違い、違法であれば司法で裁くこともできるでしょう。石動さんは自首して罪を償うこともできる」
「俺に、自首しろってのか?」
「それは石動さんのご自由に。自首して刑に服すも、捕まるかと脅えながら詐欺を続けるも、石動さんの思うままに」
アンダーウェアは歩きながら首吊り死体の様子を観察する。さっきまで生きて喚いていた男と女は人形のように静かになり、俯く顔からは目玉がこぼれ落ちそうになっている。
全身が脱力し、括約筋が緩み腹の中のものが重力に従い足下にこぼれ落ちる。辺りに大便と小便の臭いが漂う。
「首吊りは準備が面倒で、後の臭いが酷いですね。試してはみたものの、今後は他の方法にしますか」
石動は倒れた椅子に手をかけて上体を起こす。
「俺を、殺さないのか?」
「えぇ、あなたのような方は道を選び直せば良いでしょう」
「……選べる道なんて」
石動は虚ろに言葉を溢す。目に涙が滲む。
「俺みたいな運の無い奴は、セコい悪事でもしないと金が稼げない。金が稼げないとこの社会じゃ生きていけない。生きていくためには、悪いことをするしか、無い」
「そこが分水嶺でしょう? それを解っているということが大事なことです」
アンダーウェアは工場の中を扉に向かう。石動はその後ろ姿を目で追う。アンダーウェアは長い白い髪をマントのように揺らして歩く。
「詐欺を行う詐欺師の動機として多いのは、かつて詐欺に騙されたこと。騙されて奪われたのだから、今度は自分が騙して奪う側になってやろう、というものです」
「あんた、何を知ってるんだ?」
「友人を信じて、借金の保証人になって、苦労したようですね」
「何なんだあんたは? 本当に正義の味方だっていうのか?」
「違いますよ。私は正義そのものです。誰の味方でもありません」
アンダーウェアはクルリと振り向く。片手を胸に当て姿勢良く立つ。
「私の名前はアンダーウェア。悪と戦う正義の魔法少女です」
石動は呆然と工場から出ていくアンダーウェアを見送る。夜の工場の中、クレーンからは首吊りの死体がふたつ揺れる。金属と油の臭いに排泄物の臭いが混ざり、工場の中に漂う。
オレオレ詐欺で稼いで暮らしていた石動は、誘拐から首を吊られて殺されるという恐怖を味わい、突然に気紛れに、その死刑から解放されて混乱する。
――いったい、なんだったんだ?――
振り向けば吊られた死体がふたつ揺れる。
――合法の奴等が殺されて、違法の俺が生き残った。そして、自首? 自首、するのか俺は? チンケな詐欺の前科者になるのか?――
白い電灯に照らされて、影になった死体の表情はよく分からない。
――下着姿の女の子に捕まって、クソと小便撒き散らして死ぬのか。俺もあいつらと変わらない、ここで死んでる予定だった。
あぁ、殺されるような、恨まれるようなことをしてるのに違いは無い。くだらない理屈で自己弁護したところで、本当は解ってる。俺とあいつらが違ったのは、自覚してたかどうか、ただそれだけでやってることに変わりは無い。
人間なんて、生きてりゃそのうち死ぬ。だけど、あんな死に方は――
石動は椅子に両手をかけて立ち上がる。足には力が入らず、カクカクと震えている。
『あなたのしてきたことが間違いでは無いと、己は正しいことをしてきたと言うのなら、その職務に誇りを抱いて、己が生きざまに一点の曇り無しと、堂々と人生の最後を迎えて下さい』
石動はアンダーウェアの言葉を思い出す。
――クッソ、誰もがそんなふうに生きて行けるものかよ。そんなふうに悟って死ねるもんかよ。それでも、無様に殺されても仕方無い小悪党だとしても、生きることを諦めたなら。
人間なんて生きてりゃ死ぬ。そのうち死ぬ。どうせ死ぬ。金を奪って長生きしてもいずれ死ぬ。
あの黒い下着の女のように、なにもかも吹っ切れてしまえたら。
どうせ死ぬなら。
生きることを諦めてしまえたなら。
いずれは死んでしまうのなら。
狂ったように悪人を殺せるなら。
俺でも正義を名乗れるのか?
惨めに殺されるぐらいなら。
プロパンガスでも乗せた軽トラでも盗んで、証券会社にでも突っ込んで、派手に自爆して死ねば。
悪党を道連れに死ぬのなら、正義のために戦って死ねたと、誇れるっていうのか? 誰かのために正義を貫いたって、自慢できるのか?――
フラフラと覚束ない足取りで石動は工場の外へと歩く。その口からは虚ろな笑いが溢れる。
「ハハ……、ハハハ。それじゃあ、この世界から、自爆テロが無くなることは、無いよなぁ。ハハハハハ」
工場の外は暗い夜。点滅する街灯の明かりがか細く夜道を照らす。
見回してもどこにも白髪頭の黒い下着姿の少女はいない。石動は先の見えない暗い夜道を歩き出す。右手で首にかかったロープを握り絞めたまま。