1・道を遮る物があればこれ全て――
――ふう、やっと着いた。
マンション5階の扉を開けて帰宅する。
スマホを取りだし時刻を見れば、22時56分。
「まったく、あんのハゲ上司が……」
呟きながら靴を脱ぐ。
独り暮らしを始めて3年目、マンションの1人住まいにも慣れた。
慣れた代わりに独り言が増えた。
暗い部屋に明かりを点けて、テーブルにカバンを置いてネクタイを緩めてソファに身体を預ける。
ふう、疲れた。やっと休める、休めるけれど、
「8時間後には、また出勤なんだよなぁ……」
家に帰って寝て起きれば、また仕事。仕事の為に起きて出勤。それにカバンの中の書類も今週中には仕上げないと。家に帰っても気が休まらない。
今日は水曜日で、明日は木曜日か。
「あぁ、燃えるゴミを朝に出さないと」
明日は燃えるゴミの日だ。
今日は予定外の残業で遅くなった。役に立たないハゲ上司の書類にミスを見つけてしまったからだ。
単純な計算ミス、年のせいでボケてきてるのかあのハゲは間違いが多い。
しかもそのミスは部署全体にかかってくる上にハゲ上司は責任をとろうとはしない。毎回、適当に誰かのせいにして流そうとする。
「どうしてそれがまかり通るのか、なんであんな使えないハゲが、偉そうなんだか……」
「それが会社というものなんでしょう」
「そういうものか?」
「効率よりも、仕事の出来よりも、いかに自分が仕事ができるか、という気分に酔ってる人ほど偉そうに見えて重要なポジションにつくものです。ミスは全て苦労性の同僚や部下に押しつけるから、本人にミスは無い。だから結果だけ見れば個人の評価は高くなってしまう」
「あー、あのハゲ上司はそういう奴だ」
「これは同僚や部下が使えない上司の尻拭いをして、ミスをフォローして甘やかすからますます調子に乗るんですよ、あの手の者は。ですがこれは職場全体の体質の問題ですね」
「それは、耳が痛いな――」
ハゲの上にいる奴等が人を見る目が無くて、仕事のことがちゃんと解ってないから、というのもあるけど。
仕事も理解できない天下りの役に立たない年寄りが偉そうな職場というのは、これが老害か。
ところで、誰だ? 俺の独り言に返事をしてるのは?
そこにやっと気がついてソファから慌てて立ち上がり、声のする方を振り向く。
「誰だ?」
「こんばんわ、安賀多さん」
そこに女の子が立っていた。
独り暮らしでこの3年間、弟以外は誰も来たことのないマンションに、女の子がいる。
「ずいぶんと遅いお帰りで、仕事で残業ですか? ご苦労様です」
薄く微笑む白い長い髪の女の子が、ソファの後ろに立っていた。
立って、薄く笑っている。
なんだ? この女、誰だ? いつの間に俺の部屋に入った? いつからそこにいた?
いや、本当に人間か?
仕事の疲れで見えた幻覚か?
なんだこの白い女の子は? 幽霊か?
その少女はゆっくり歩いてソファの後ろから回り込んでくる。
「使えない上司のせいで残業ですか。当の本人はいつもさっさと帰っているというのに。仕事とはいえたいへんですね」
なんでそんなことを知っている?
なんで俺の職場のことを、よく知っているような口ぶりで。
見ればみるほどまるで現実感が無い。その女の子の姿がおかしい。まともじゃ無い。
薄く青みがかった、真っ白な髪はボリュームがあって大きくふわりと広がっている。
膝ぐらいの長さにまで伸びる髪は、まるで膨らんだマントのようにも見える。
何よりその格好、着てる服がおかしい。
ベビードールというのか? 黒いレースの透けて肌の見える下着のような服。
胸の下で左右に別れて裾が広がっているから、ヘソも黒いパンツも丸見えだ。
黒いガーダーベルトに黒いストッキング。
足元は黒いショートブーツ、足があるから幽霊じゃ無いのか? 白い長い髪のカツラをかぶってコスプレした空き巣? 下着姿の? 背の低い女の子が?
いや、俺の部屋に土足で入ってることがまずおかしいだろう。その靴を脱げ。いや、そうじゃ無くて。
なんなんだこいつは?
「驚いてますね? 安賀多さん?」
黒いカチューシャには黒い花の布飾り。両手を横に広げて手のひらをこちらに向けている、その手は黒いレースの手袋。
白黒ツートンカラーの下着姿の女の子が、底の見えない黒い瞳で俺を見ている。
こいつはなんなんだ? 頭のおかしい泥棒? それともストーカーとか?
それとも俺の頭の方がおかしくなったのか?
唾を飲み込み聞いてみる。
「……誰だお前は?」
「私が誰かというのは、わりとどうでもいいことですが」
下着姿の女の子が応える。
こんな知り合いは俺にはいない。そもそもこんな下着で彷徨くようなイカれた知り合いなんかいない。
勝手に俺の部屋に入ってきて、なんで堂々としてるんだ?
それとも、
「俺はこんな幻覚を見るくらい、疲れているっていうのか?」
あまりにも現実離れしている。
これは夢か? いや、夢にしてもだ。妄想だとしてもだ。
俺はロリコンじゃ無い。見知らぬ下着姿の中学生か高校生くらいの女の子がいきなり部屋にいても、こんなの怖いだけだ。
ストレスで見る幻覚にしたって、見ていい類いのと見ちゃダメなのがあるだろう。
もしかしてこれが俺の深層心理の願望とか? いやいやいやいや、こんな状況望んでなんか無い。いきなり下着の女の子が出てきても不気味なだけだ。
それに俺は微乳派じゃ無くて巨乳派だ。
未成年、ダメ絶対。
目の前の白い髪の少女は小首を傾げる。
「ふん? 幻覚だと思われてますか? まぁ、現実離れしてますか? 私としてはこの出会いを別段大げさに演出する気は無いですが。あぁ、この髪とか衣装は日本人としては一般的では無いですが、これはこういう仕様なのであしからず」
「いったいなんなんだ、お前は?」
「あなたに用があるんですよ、安賀多さん。安賀多優理さん。下着姿の女の子が夜中にいきなりあなたの部屋に訪れるファンタジーはお嫌いですか?」
「それを実際に目にしたら、気味が悪いだけだ。ファンタジーよりホラーか怪談だ。お前、なんで俺の名前を知っている? どうやってここに入った? オートロックのはずだぞ?」
「む、気味が悪い、ですか? 私はこの格好をそこそこ可愛らしいと思うのですが、安賀多さんの趣味には合いませんか?」
「趣味で言うなら、下着姿でうろつくのは悪趣味だろう」
「私の用件はただひとつ」
俺の話を聞いてるのかこいつ?
白い髪の少女は右手の黒いレースの手袋に包まれた人差し指をピッと立てる。
「安賀多さんにはこれから異なる世界に行ってもらいます」
――なんだか聞いたことあるぞ。
「異世界転移とか異世界転生ってやつか? 流行っているのか? この前、書店で異世界転生コーナーなんてものができてたか」
「皆さんご自分の住んでる世界がお嫌いのようで。いろいろとやり直したい。今度は満足できる人生を、もう一度。だけどまた日本に産まれてきても、先行きの暗いこの国ではろくなことは無さそう。また同じことになりそう。だからできれば違う世界で、という願望なのでしょうか?」
「そんなのただの現実逃避だ」
「もともと読書自体が心を異なる世界へと遊離して旅立たせる遊戯ですよ。ファンタジーの別名は逃避文学です」
「俺に逃避願望があるっていうのか? それでこんな幻を見てるってのか?」
「おや、私は安賀多さんの幻では無いのですが? 私はちゃんとここにいますよ」
何が楽しいのかクスクスと笑う白い髪の少女。そこだけ見れば可愛らしくも見える。
だからこそ余計に不気味に見える。
「幻か幽霊か妖怪か天使のように見えても、これは夢では無く私は確かにここにいます」
「じゃ、それを証明して見せろ。それができなきゃ俺は近いうちに精神科で見てもらわなきゃならない。ストレスチェックにひっかかったらどうしてくれる? 仕事をクビになるかもしれない」
「?なんで私がわざわざ安賀多さんの精神の病とか人格の病とかを気遣って、証明なんてめんどうなことをしないといけないんですか?」
お前のせいだからだ、という言葉は口にしないで飲み込んでしまう。
通じない。こいつは俺の話をまともに聞く気は無いんだろう。
クスクスと口元だけで笑って目は笑っていない。白黒2色の少女は、見れば見るほど――怖い。
視線を外さずに見つめる瞳は真っ黒。
光を反射しない黒目は暗い穴のようだ。その穴の底から、なにか黒いモヤが湧いてきそうな、その目から出た得体の知れない何かがこの場を浸食しているような、そんな目で俺を見ている。
背も150センチ無さそうなチビが、なんでこんなに怖いのか。
「異なる世界、だって? なんで俺がそんなとこに行かなきゃならない?」
「それは安賀多さんが選ばれたから、ですよ。そうですね、これが夢、幻では無いことの証明ついでになりますか」
言いながら近づいてくる。
「頬をつねって痛くなければ夢というのがありますね。もっとも私は夢の中でも痛い思いをしたことがあるので、なんとも言えません。夢の中で痛覚が有るか無いかは個人により違うようですが、痛い思いで目が覚めるというのがあります」
「何を言ってる、おい、俺に近づくな」
「なので安賀多さんも試してみましょうか。私がお手伝いしますよ」
目の前の少女の姿がフッと消えて、次の瞬間には目の前に接近して、黒いレースの手袋に包まれた右手を横に一閃する。
――喉が、熱い?
焼けた鉄串を押しつけられたような。
反射的に手で首を押さえる。
か、ひゅう
何をする? と言おうとして言葉にならない。喉から空気と、赤い血が。
「何をする? はい、このメスで安賀多さんの首の頸動脈1本と気管を切りました」
声のする方、既に手の届かないところに離れた白黒2色の少女は、その手に手術で使うようなメスを持って見せつける。
喉を押さえる指の間から空気が抜ける、血が止まらない――何で?
「何で? 安賀多さんに死んであの世に行ってほしいからですよ。死んで異なる世界、天国でも地獄でも極楽でも煉獄でも涅槃でも、喚ばれた方へ、好きなところへ行って下さい」
膝から力が抜ける。立っていられない。
フローリングの床に膝をつける。床が赤く汚れている。
赤く汚しているのは血、俺の喉から溢れ出る俺の血が。
俺が、死ぬ? なんで見知らぬこの女にいきなり殺されなきゃならない?
「安賀多さんが殺される理由ですか? 安賀多さんが防音の効いたマンションに独り暮らしで殺害が簡単そうだったからです」
納得できるか、そんな、そんな理由で、
足に力が入らない。フローリングの床に肩から倒れる。仰向けになって少女を見上げる。
両手で首を押さえても血が止まらない。赤い血が、俺の首から血と空気が抜け出る。
「それと、安賀多さんは厚生省にお勤めなので。私の正義が厚生省を悪と断定しました。殺すのは厚生省の人なら誰でも良かったのですが、その中で殺害しやすそうなのが安賀多さんだったんですよ」
悪? 悪だって? 俺の勤め先が? そんなの、俺の責任じゃない。下っ端の俺を殺しても何も変わらない。
「しかし、上を殺したところで組織というのは首がすげ代わるだけ、ならば組織の存続が難しくなるぐらい人が死んでいなくなればいいのでは? と考えました。つけ加えて厚生省に勤める者は何者かに殺される、というイメージを社会に浸透させるのも狙いのひとつです」
そんなことのために俺を殺すのか? この女は?
バカげている。頭がおかしい。こいつは気違いだ。本物の気狂いだ。
なんで怖いと感じたのかやっと解った。この目だ。何をするか解らない狂人の目だ。
冷静なままに訳の解らない理屈を口にするイカれた人間。理解不能の冷徹な論理のままに、あっち側に行った気違い。
理解のできない理解したくも無い発狂思考。
こいつは、こいつは――、
「私ですか? あぁ、名乗るのを忘れていましたね。では身罷る前に改めて」
薄く蒼い艶の白い長い髪を翻して、黒い下着姿のモノクロの少女は上から覗くようにふわりと頭を下げる。
「私の名前はアンダーウェア」
底の見えない黒い瞳で、床に倒れた俺を上から見下ろし、腰を折って見上げるように。
「この世の悪と闘う正義の魔法少女です」
無邪気にニコリと微笑む。
魔法、少女? 魔法少女だって?
そんな訳の解らないふざけたものに、こんなイカれた女に殺されるのか? 俺は?
苦しい、息が、
これから、これからなんだ。
ハゲ上司はクソでも、同僚とは上手くいっている。先輩には期待されている。
喉が、熱い、
今日の残業だって同僚と先輩が手伝ってくれたから、なんとか今日中に終わったんだ。
田舎の両親はいつ結婚するんだって、最近チクチクと言ってくる。
血が止まらない。手が血でぬるぬるする。
働いて稼いで、仕送りして、ちゃんとやってるって、父さんと母さんには少しは楽をさせてやりたい。安心させてやりたい。
こんなの悪い夢だ。
嫌だ、死にたくない、
いきなり魔法少女が現れて、その魔法少女に、首をメスで切られて、殺されるなんて。
ありえない。
ありえる訳が無い。苦しい。
助けて。誰か――
「ふん? 首を切っても即死というものでは無いのですね。頸動脈は2本とも切った方が早くて良かったですか? 余計に痛がらせたり苦しませるような悪い趣味は持ち合わせていませんし」
この悪趣味の塊のような気違いが何を言ってる? 助けてくれ、血が、ああ、目の前が、嫌だ、だんだん、暗く、助けて、見えなくなって――
こうして、安賀多優理の人生は終わった。
厚生省に勤め、職場では細かいところに気がつく、仕事ができると評価され期待された青年の人生は殺されて終わった。
あっさりと、あっけなく。
後に、空き巣に出くわして逃走する犯人に首を切られて殺された事件として処理される。
謎の連続殺人事件の被害者とも疑われる。
その犯人は不明のまま。
青年、安賀多優理の魂がどこの世界の何に生まれ変わったのかは不明。
天国や地獄があるかは不明。
魂が有るかどうかも不明。
なぜならこれは安賀多優理の物語では無い。
青年、安賀多優理は殺された内のひとりでしかない。
悪と戦う正義の魔法少女、アンダーウェアが殺害した797人のうちの、ただのひとり。
彼にとっては理解不能の魔法少女の正義、その正義の障害とされた、悪と見なされた人達の中のひとり。
797という数字の中の、ただのひとつ。
「ふむ、これで正義に1歩、近づきました」
つまらない仕事を、くだらない作業をやっと終わらせたという表情で、動かなくなった青年の死体を見下ろす白黒の少女。
アンダーウェアは、ふん、とため息ひとつつき。
「厚生省が崩壊するには、あと何人殺せばいいのでしょうね?」
彼女の問いに応える者は、そのマンションの一室にはもう誰もいない。
魔法少女、アンダーウェア。
正義を名乗り、正義のために、殺して戮して害して傷めて葬った、最も人殺害数の多い魔法少女。
本来であれば悪夢と戦うはずの魔法少女達の中で、人の暗殺を熱心に繰り返したモノクロの少女。
「どれだけ罪在りを死なせれば、世界は正しさに辿り着くのでしょうね?」
天井を見上げる少女の目は暗く、そこには何も映ってはいない。
これは正義を名乗る魔法少女、
アンダーウェアの物語。