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死者の冷えきった五指に心臓を掴まれたら、同じ心地がしたはずだった。寒気を覚えるほどの心細さに、僕は突然、襲われた。それは周囲に立ちこめる濃密な暗闇から這い寄って来たに違いなかった。
まわりを見渡す。視界はまったくの黒に塗りつぶされている。これでは瞼を閉じているのと、なんら変わらない。なにも見えない。僕の四肢さえも、闇の中へ溶け込んでいる。
僕の他には、誰もいなくて、なにも存在していないのではないか?
そんな不安を覚えた。しかしふいに、頭上に気配を感じた。人の気配だ。助けを求める思いで、僕は弾かれたように、顔を上げていた。
見上げた先……空は一面、何層もの膜に覆われていた。使い古したレースカーテンのような、灰白色の膜だ。
空を塞ぐ、文字通り天蓋となっている薄布の重なり。それは皺一つなく、ピンと張られていた。しかし凪いでいた湖面を、突風が駆け抜けていったときの如く、天蓋の布に突如、同心円状の陰影が現れた。
最初は漣のような細かな紋様だった。それが見る見るうちに、波長と振幅を増し、ついには津波にも似た激しさで、空を掻き乱し始める。
空の波が押し寄せるのは、頭上の一点だ。本来ならば放射状に伝播するはずの波が、僕の見つめる一箇所に収束していく。それに伴い、天蓋の灰白色もまた、そこへ凝縮していった。透き通った水面に墨を一滴、落としたときの映像を、スローモーションで逆再生して見ている感覚だった。だが僕が見ているのは、純粋な復元ではない。くすんだ白色は集まるにつれて、濁りを増すどころか、本来の純白さを取り戻していったのだ。そしてとうとう、空さえもが闇に支配された。ただ一点に、白色を残して。
白点は裁縫針で穿たれた穴と同じほど、極めて小さなものだった。しかしそれが周囲の闇にも負けないほど眩かったものだから、僕はその星から目を離せずにいた。
すると、どうしたことだろう。ゆっくりとだが、その白点が膨らみ始めた。僕から見て指で摘めそうな大きさにまでなったとき、点だと思っていたそれが、なにかになろうとしている――いや、最初から形を持っていたらしいことに、僕は初めて気づく。
子供の描く簡略化された樹木に似ていた。細い樹幹、一対の長い根、一対の短い枝、そして、頭。逆さまになった格好で、次第に大きくなっていく。それは女の姿をしていた。「あっ」という僕の潰れた声が、周囲の闇へ吸収されていった。
足の裏を空へ、頭を僕へと向けている、真っ白な女の人は、紛れもなく、きみだ。