梅とチョコレート
また梅の薫る季節が来る。贖罪の季節だ。
「ごめんください」
その日、浅倉を若い男が訪ねてきた。鋭い目つきをした気真面目そうな男だった。
「浅倉先生、ご無沙汰しています。突然にお邪魔してすみません」
「君は確か……森沢君か。一高の」
青年は破顔した。するとリスを思わせる大きな前歯が露わになり、急に愛嬌が増す。浅倉はその口元にどきりとするほど見覚えがあった。
「覚えていて下さいましたか。もうすっかり忘れられているかと。なんせ卒業してから十年も経っていますから」
「教師っていうのは、そう簡単に教え子のことを忘れられんもんさ。忘れようと思ってもね」
浅倉は森沢に上がるように勧めた。やもめ暮らしの侘しい住まいだがと断ると、彼はまた前歯を見せて笑った。
「ご心配なく。お菓子は持ってきました」
森沢は洋菓子店の青い紙袋を掲げてみせた。
浅倉はそっと息を飲む。その包みは彼が抱え続けている罪の記憶を呼び起こさせるものだ。これまでずっと浅倉の罪を知っている者はいないと思ってきたが、それは思い違いだったのかという疑念が浮かび上がる。
とうとう断罪の日がきたのか。
浅倉の心に恐れが沸き立った。
おもたせのチョコレートと茶を挟んで居間に落ち着くと、次の台詞はお決まりのものになった。
「それで。最近はどうしているんだい?」
「実は、最近こちらの近くの幸署に異動になりましたので、ご挨拶に寄らせていただきました」
署という響きに警察官になったのかと問えば、署は署でも消防署だと答えられた。現在は救急救命士として救急車に乗っているという。
「そうか。それは立派なことだ」
何気なく頷きながら浅倉の恐れは増した。彼がその職業を志すに至った理由を浅倉はたぶん知っている。予想通りであれば、それは浅倉の罪と深く関係している。
「ここまでやって来られたのは先生のおかげです」
若い男の真っ直ぐな視線に、浅倉の鼓動はますます激しくなる。こめかみが引き攣るのを感じて、浅倉は視線を窓へ逸らした。
小さな庭では梅がちらほらと綻んでいる。咲きはじめの梅は、ひどく控えめで恥じらいがちだ。
「そんなことはないだろう。私は君の担任でもなかったし。部活だって、陸上部の顧問と剣道部員じゃ、そうそう顔を合わせることもない。私が教えられたのは歴史だけだよ」
森沢は、今度はほんの少し皮肉気に笑った。
「何部であれ、当時の一高生で先生の影響を受けなかった生徒はいませんよ。あの頃、先生はまだ四十そこそこで女子の憧れの的だったじゃないですか」
「ははは。からかわれていただけだよ」
「いいえ。バレンタインのときなんて緊張している僕らを素通りして女の子は皆、浅倉先生にチョコレートを持っていくんだから。全く。僕らの青春を返して欲しいですね」
実際に浅倉は女子生徒に人気があった。数年前までは若手の独身教師と括られていたからだろう。学校という閉じた世界に限っては、浅倉は好条件の大人の男だったのだ。
森沢もそれは承知のようだった。おかげで大人の男はモテると学び、それがその後の人生をまっとうに努力する原動力となったのだと真面目腐って説明した。
「だから、今の僕があるのは先生のおかげというわけです」
森沢が浅倉の罪に触れなかったことに安堵して、浅倉は少しの余裕を取り戻した。すると、チョコレートをつまむ森沢の左手に銀色のリングが光っていることにも気が回る。
「なるほど。そういうことか。それで努力の効果は出たのかい?」
森沢は顔を俯けて微笑んだ。
「先生ほどはモテませんでしたが、おかげさまで結婚しました」
「子供は?」
間髪を入れずに問うた浅倉は口ごもった森沢を見て反省した。最近は若い夫婦に子供をせっつくのは嫌われる。学内でもハラスメントへの注意喚起は煩いほどなのに、いつの間にか身に着いた常識はなかなか剥がれていかない。
「すまん、すまん。立ち入ったことを」
森沢は肩を強張らせながらも微笑んだ。
「いえ。今度、一人目が生まれる予定です」
「それはめでたい。祝杯でもあげたいところだが、実は医者から禁酒を言い渡されていてね。お茶で勘弁してくれよ」
浅倉が湯呑を掲げると、森沢は心配そうに眉を寄せた。
「先生、肝臓でもお悪いんですか? まだそんな年じゃないでしょうに」
「長年のやもめ暮らしで不摂生が祟ったんだろう。何、そう深刻なもんじゃないさ」
森沢は息をついた。
「病状を悪化させる人は、最初みんなそう言うんです。そういえば、この間、同窓会がありまして。青木も同じことを言っていたからもっと真剣に考えろって叱ったばかりですよ。覚えてます? サッカー部のキャプテンだった」
「ああ、あの威勢のいい、坊主頭の」
「今はもう坊主じゃないですけど。三枝に止められたらしいですよ。ほら、生徒会の。在学中もしょっちゅう喧嘩してましたけど、今も青木は三枝とつきあっていて、怒られ通しらしいです」
「ははは。そうか、彼らは今でも付き合いがあるのか。彼女ならしっかり者の嫁さんになるだろうな」
相槌をうちながら、浅倉は遠い記憶を呼び返した。まだ幼かった生徒達も成長し、立派に家庭を持っているのだと思うと感慨深い。
いつまでも一人で同じところに留まっているのは自分ばかりのようだ。一年の季節を経ても春には同じ場所に戻って来る。
「先生、すみません。少し意地悪をしました」
固い声音に物思いから引きずり出され、浅倉は森沢をみやった。
「意地悪?」
「サッカー部のキャプテンは長江です。青木は野球部。それから三枝は男です」
「はっ、私の記憶を試したのかい? それは確かに意地が悪いな。年寄りに老いを突きつけて」
「いいえ、先生。十年も前のことです。うろ覚えで当然です。その方が自然だ」
浅倉は再び心臓が強く打ち始めるのを感じた。内臓というのは脳と同じ速さで驚きを理解できるものらしい。口の中まで一瞬で乾き、唾液が急に粘つきを増した。
「何が言いたい」
「先生。どうして僕のことだけはっきりと覚えていらっしゃるんです? 僕が五十嵐佑人の兄だからですか?」
五十嵐佑人は浅倉の教え子の一人だった。当時から森沢と五十嵐は苗字が違い、誰も彼らが兄弟だとは知らなかった。浅倉も五十嵐に打ち明けられるまで気づきもしなかった。言われてみれば、大きな前歯と笑った口元はそっくりだったが、他には目立って似たところはなかった。何よりも硬派な雰囲気の森沢と、優男風の五十嵐は印象が違い過ぎた。
五十嵐は、どういうわけだか浅倉に懐いた。幼い頃に両親が離婚して母に引き取られたと聞いたので、浅倉に父性を求めているのではないかと推測していた。思春期の不安定な時期だから、無下にはせず、なるべく彼の期待に応えてやろうと務めたものだ。
しかし、五十嵐が求めていたものは父ではなかった。浅倉は、それをあのバレンタインの日に知った。梅が満開だった二月十四日。差し出された青い包みのチョコレートに込められていたのは親子の愛ではなかった。
浅倉は受け取らなかった。断ることが、五十嵐のためだと思ったのだ。彼をあるべき道に留まらせるためだと。それが浅倉の常識だった。だが、自分の信じる常識がいつも正しいとは限らない。常識も年をとるのだ。気付けば時代遅れにもなっていることだってしばしばある。
「驚かれないんですね。やっぱりご存知でしたか」
黙り込んだ浅倉にかけられた森沢の言葉にも驚きはなかった。浅倉が知っていると、確信があったのだろう。もしかしたら、五十嵐に聞いていたのかもしれない。
浅倉は観念して、頭を垂れた。
「すまない」
謝罪した途端に恐怖を安堵が上回った。
浅倉は自分がずっと誰かに謝りたいと思っていたのだと自覚した。罪を告白してしまいたかったのだ。
森沢は立ち上がり、窓を開いた。冷たい風に乗って僅かな梅の薫りが吹きこんでくる。
「先生。教えてください。あの日、どうして佑人は死んだんです?」
「それは……」
「あの日の朝、あいつ、真っ赤な顔して、それは嬉しそうに先生にチョコレートを渡すって言ってたんです。これです。先生。このチョコレート」
「ああ。覚えている」
「覚えているのなら、教えてください。どうして佑人は死んだんです」
その日、浅倉が五十嵐の気持ちを拒んだ後、彼は屋上から飛び降りた。落ちた先は梅林で駆けつけた浅倉の記憶には梅の薫りが刻まれた。
「あなたが自殺に追いやったのではないですか。酷く、あいつを傷つけるようなことを言ったのではないですか」
それは浅倉自身、何度も自問し続けていることだった。どうすれば良かったのかという戸惑いは、後悔と共に浅倉の胸に留まり続けている。
「ただ、受け取れないと。君は男だからと。その感情はきっと今だけの気の迷いだと。そう言ったんだ」
「それだけ。本当に?」
「ああ、それだけだ」
森沢は拍子抜けしたように畳に座り込み、乱暴に髪を乱した。
暖かそうな陽射しの中で可憐な花は枝にしがみ付くように咲いている。しかし、吹きつける冷たい風には容赦がない。
浅倉は窓を閉じた。森沢は座り込んだまま動かない。励ましも、謝罪も、かけるべき言葉が見つからない。代わりに浅倉は、森沢が訪ねてきた瞬間から感じていた疑問を投げかけた。
「どうして十年も経った今になって私のところに来たんだ?」
返事が返るまで、長い沈黙があった。
「子供、男なんだそうです。それを聞いたら佑人の生まれ変わりかもしれないと思えて。僕を恨んでいるんじゃないかって」
「馬鹿を言うな。そんなはずないだろう。彼が恨んでいるなら、私のはずだ」
すると森沢は鋭い眼差しで浅倉を捉えた。唇が青ざめ、震えている。
「先生。あの頃、僕には片思いの人がいてね。彼女が先生にチョコレートを準備しているのを知っていたんです。佑人の話を聞いたとき、僕はまず先生が困ればいいと思いました。それで佑人の背中を押した」
森沢は窓の外の梅を見やった。
「佑人を突き落としたのは、本当は……」
白い花弁はとうとう風に吹き上げられ、ゆらりゆらりと揺れながらゆっくりと舞い落ちていった。




