Early X. キックス-5
がっかりですっ!
「……あれ?」
不思議だなー、と首を傾げる。
――やはりというか、当然何も変わらない。
「……あれ?」
正に、完全に逃げおおせたと思った瞬間の出来事だったはずだった。ふと、誰かとすれ違った様な気がして思わず後ろを振り返った次の瞬間、何故か目の前にノノーツェリアの顔があった。
彼女にとってもこちらは突然現れたように見えたのか、驚きの表情のまま目をぱちくりとさせている。
――逃げるなら、まだ間に合うか……?
我に返ったのはまたしてもキックスが先だった。
脳裏にそんな提案が思い浮かぶのと同時、もしくはそれ以上に早く、キックスは両足を動かしていた。
一歩、そして二歩。
――ノノーツェリアが手を伸ばすのが何となく分かった。だが遅い。それがキックスには手に取るように分かった。そして恐らくはノノーツェリアも同じだろう――決して間に合いはしない。
三歩。
キックスに向かい伸ばされていた手が宙を切る。
――勝った! その瞬間、キックスは確かにそう確信した。
先程は突然わけの分からない事が起きたが、それはそれ。今この場で逃げ切れたのならば結果に変わりはない。
だから、今は彼女の魔の手から逃げ出すことだけを考えよう。それにノノーツェリアの手は届かなかった、後は全力で手足を動かせばいい、それだけなのだから。
「――……待って」
ぱし、と後ろから手を掴まれた。
確かに逃げ切れたはずの、その手がいつの間にか捕まっていた。
「……、ぇ」
驚愕に思わず後ろを振り返る。
何処か、泣き出しそうな表情のノノーツェリアがそこには居て。キックスはどうして自分はあんなに必死になって逃げようと思っていたのだろう、と不思議に思った。
同時にどうして捕まってしまったのか、その理由も理解した。――自分で逃げる足を止めていたのだ、追いつかれて当然じゃないか、と。
彼女のあんな、泣き出しそうな声が聞こえてしまっては立ち止まらないわけにはいかないじゃないか――と、一瞬でも思ったその事をキックスは即座に否定、後悔した。
目の前で、にっこりと満面に頬笑みを浮かべるノノーツェリアがいた。……目は全くと言っていいほど笑っていなかったが。
「――お帰りなさい、キックス」
「……うん、ただいま、ノノ」
――女の子の表情には気をつけよう。
キックスは一つ、教訓を得た。
「ねえ、キックス。何故逃げるんでしょうか?」
「何故って……何でだろうね? 多分ノノが追いかけてきたからじゃないかな?」
「では、私が追いかけなければキックスは大人しく服を脱いでくれる、と言う事でいいんですね?」
「いや、それは別の――」
「いいんですね?」
「……、ほら、ね? せめてヒトの目のない所でお願いします」
「ヒトの目?」
ノノーツェリアが周りを見渡す。そうして、周りの好奇の視線にようやく気付いたとばかりに恥ずかしそうに俯いた。
もうそこに向けられるだけで寒気が湧いてくるような彼女の笑みはなかった。むしろ――
「……そうですね。ではキックスの言うとおり、そうしましょうか?」
頬をほんのり染めながら上目遣いで見つめてくるノノーツェリアの仕草と表情は、凄く可愛かった。
◇◆◇
裏路地の奥の、更に裏の路地。
片や着崩れた服の男と、一応服は着ている女が二人。人目などほぼ皆無の裏路地で男女二人がする事など、決まっていた。
「さあ、脱いで」
「……やっぱり、脱がなきゃ駄目かなぁ?」
「駄目です」
「だめ?」
「駄目ったら駄目です。いい加減、男らしく覚悟を決めて下さい」
「……うん、分かったよ。僕も男、だしね」
実はこれが、出会ってまだ数刻も経っていない男女の会話である。
「あー、でもやっぱり、」
「ああもうっ、優柔不断ですねっ!」
「――ちょ、ノノ!?」
業を煮やしたのは女の方が先だった。
獣のような勢いと、匠のような指遣いで男の服を脱がそうと襲いかかる。比喩ではなく――キックスの方からしてみれば十分に襲いかかってくるケモノに見えた。
男がオオカミと言うならば、女の場合は女豹とでも言い表すのが正しいか。
「服をっ、脱ぐ気がないのならっ」
「ちょ、破れる、破れちゃうって!!」
「ならっ、私の質問に答えてっ、下さいっ」
「いや答える、答えるよ。答えるから、服、引っ張らないでっ、これ僕の一張羅なんだからぁ!!」
キックスの上げた心からの叫びに、ノノーツェリアの手が止まる。それでも未だ服を握りしめたまま離そうとはしていない。
ちなみに二人とも、揉みくちゃ状態で今、凄い体勢になっていたりするのだがそれはそれ。気付いていなかったりする。具体的に言えばのノノーツェリアがマウントポジションで、キックスがその下で半分青ざめている状態である。
「……本当に答えてくれますよね?」
「うんうん!!」
精一杯、力の限り首を縦に振る。
「……と、言うよりもノノ、僕は別に質問に答えたくないとか、そういうことを言った覚えはないんだけど……」
「あら、そうでしたか?」
「そうだよぉ」
「では単刀直入に聞きますけど――キックス、あなた、“奴隷”ですね?」
「そうだけど?」
「……」
「……あ、あれ? ノノ、何か呆れたみたいな顔してるけど、どうかしたの?」
「ちょっと、やっぱり服を脱いで下さい、キックス」
「ど、どうしてそうなるの!?」
「――“隷属の烙印”を見せて下さい、と言っているんです」
「あ、成程。そういうことか。僕はてっきり……」
「てっきり、何ですか?」
「うん、ノノに襲われるんじゃないかって」
「おそっ――そんなことするはずないじゃないですかっ!!」
「でも今の体勢って、ほら」
「――、っっっ!!!」
ノノーツェリアの身体が弾かれたように後退る。
顔を真っ赤にして、何か言おうとしているのか口が開いたり閉じたりしているのだがどうやら言葉にならないらしく、漏れ出る声はなかった。
キックスはキックスで、安堵の息を吐きながらようやく解放された身体を起こした。それから服の埃を払って、何処か破けたところがないかと念入りに探し出す。
そうして一通り、服の無事を確認し終えたキックスがノノーツェリアに視線を戻すと――
「私はそんなはしたない娘じゃありませんからねっ!!」
怒鳴られた。
「あ、うん。分かってるよ。僕の勘違いだったんだよね?」
「……その通りです」
自分が押し倒した事を思い出したのか、ノノーツェリアが頬を染めたまま俯く。
ほんのちょっとだけ、その仕草に見惚れたりしたのだが当の本人がそれに気付く事はなかった。
「でも初めからそう言ってくれれば“刻印”くらい見せたのに。……流石に人前とかじゃ恥ずかしいから嫌だけど」
“刻印”は上半身の――通常は胸の中央に刻まれるものだから上だけ脱げばそれでいいか、と考えながらキックスは上着に手をかけた。
理由もなく脱がされるのでなければ、それに今いる場所は人気のない裏路地であるし、決して拒むような内容ではないのだから。
「……最初から思っていましたけどキックス、あなたって随分と変わっていますよね?」
「変わってる? そうでもないと思うけど?」
「いいえ、十分変わっていますよ。“烙印”を見せる事に嫌がる素振りも、感情も見せない奴隷なんて私、初めて見ましたよ?」
「そうなの?」
「はい。“隷属の烙印”とはつまり――自分が卑しい身分のものであるということの何よりの証明ですからね」
「奴隷って卑しい身分なの?」
「……」
「ノノ?」
「……――どうやら、あなたのご主人様とやらは大層大らかなバカか、もしくは稀にみる世間知らずかのどちらかのようですね」
「うん、どちらかと言えばご主人様は……ヘタレたお人よしの大馬鹿な大物、じゃないかな? ……ノノ、これでいいかな?」
若干居心地が悪そうに、上半身裸になったキックスの胸の中央には確かに難解怪奇な文様――“隷属の烙印”の証たる“印”が刻まれていた。
僅かに目を細めてその“印”を睨みつけるように見つめ、ノノーツェリアが僅かに声をもらす。
「――やっぱり、あなた“奴隷”だったんですね」
「だからそうだって言ったじゃない」
「……とても、奴隷を相手に話している気がしませんでしたから。私の知っている奴隷たちはもっと――」
「もっと?」
「――……いえ、関係ない事ですね。気にしないで、忘れて下さい」
「う、うん、分かった……けど、僕の知ってる“奴隷”って言ったら皆、僕みたいたなんだけどなぁ。僕、変じゃないよね?」
十分、変である。
普通は微塵も奴隷根性が染みついていなかったり、ご主人様をぞんざいに扱っている時点で普通じゃないと気がつくわけだが、周り全てが“そう”であれば気がつかないのも仕方ないと言えば仕方がない。
「でも、あぁ、もう、……いえ、それならばそうと、こっちにとっては好都合かもしれませんね。――キックス?」
「うん、なに?」
「あなたのご主人様とやらは一体どこにいるのですか?」
「……さあ?」
「奴隷なのに自分の主の居場所も把握していないのですか、あなたは? つくづく奴隷らしくないのですね」
ノノーツェリアの声に呆れが入り混じっているように感じるのは、決して勘違いではないだろう。と、言うよりもこれ見よがしにため息をついたりしている時点で飽きれているに決まっている。
ただどうしてか、呆れの中に苦笑と好奇――彼を肯定するような感情が入り混じっているように感じる理由がキックスには分からなかった。
「そうは言われても……色々あってはぐれちゃったわけだし」
「はぐれた、ですか。ではあなたの主はこの町のどこかに居るのね?」
「多分」
「なら話は早いですね。ねえ、キックス、あなたは今、自分の主とはぐれて困っている、そうですよね?」
「え、うん、まあ困ってはいるけど……急にどうしたの、ノノ?」
急に浮かべなおした笑顔が裏があるようにしか見えないので、怖い。
「私が、一緒にあなたの主とやらを探してあげましょう」
「結構です」
考えるより先、言葉が出ていた。
ノノーツェリアの笑顔が音を立てて割れそうなほどに固まるが、キックスは敢えてそれに気づかないふりをした。気付くのが怖かった、とも言える。
「いや、だって、何だか、身の危険がひしひしとするし……兎に角、ご主人様を探すのは僕一人で大丈夫だよ」
「そうですか」
「うん、それにほら、ノノってお姫様なんでしょ? なら僕と違って色々と……忙しい事とかあるんじゃないかなぁ?」
「確かに忙しいですね。逃げてきましたけど」
「逃げてって、それは駄目なんじゃ……」
「良いんです。それに私の事よりもキックスは自分の心配をした方がいいかもしれませんよ?」
「え――それってどういう意味?」
何か、嫌な予感がするのだが――と、そこまで思い浮かべてあることに思い当たる。
そう言えばノノーツェリアは騎士たちに追われていたわけで。そして勘違いとその他色々の諸事情とは言え、二人で手を取って逃げたのだ。それも騎士の目の前で。しっかりと目撃されているに違いない。
サァァ――と、キックスは己の血の気が引く音が聞こえた気がした。
「あら、どうかしましたか? 顔色が悪いですよ?」
何処か楽しげな、ノノーツェリアの声がまるで死刑宣告のように聞こえるのは気のせいだろうか。単なる思い違いであってくれればどれほど嬉しいか。
「……ねえ、ノノ。もしかして、もしかしてだけど僕って」
「はい、どうかしましたか?」
「あの、ノノの事を追ってた騎士のヒト達に、何か勘違いとかされてないよね?」
「勘違いとは?」
「た、例えば……ノノの事を攫ったヒト攫い、とか」
「それはないと思いますよ?」
「そ、かぁぁぁ」
ノノーツェリアの否定の言葉に大きく安堵のため息をつく。たとえそれが気休めに過ぎなかったとしても、ないよりはマシ――
「私をたぶらかした悪い虫、くらいには思われているでしょうけど」
――でもなかった。
「ち、ちなみに。もしそう思われてたりしたら、僕はどうなっちゃうのかな?」
「良くて死刑じゃないですか? お父様、私の事を目に入れても痛くないくらい可愛がっていますから。……私としてはお父様には近づいても欲しくないんですけど」
「……死刑、死刑かぁ。あははは」
「まあ、私が傍にいれば弁解の機会くらいはあるかもしれませんけど。でもキックスがはぐれてしまった主を探すのに私の手伝いが必要ない、と言うのでしたら仕方ありませんよね。キックス、また逢う時が牢屋か、斬首場でない事を祈っていますね♪」
実に朗らかな、極上とも言える笑みを浮かべて、ノノーツェリアはキックスの傍を離れて去っていこうとする。それも余裕たっぷり、悠々と。
思わず彼女の背中を追うように振り返って、そのカメのような歩みの背中が『話しかけて、早く話しかけて♪』と語っているような気がしたのは果たしてキックスの勘違いだったのかどうか。
「ちょぉ……ちょっと、待ってくれないかな、ノノ」
「はい、キックス♪ 私に何かお願いしたいことでもあるんですか♪♪」
その笑顔をどう言い表すべきか。天使の笑み、もしくは悪魔の微笑みのどちらかには違いないのだが。
――どちらにせよ、キックスが取るべき行動は決まっていた。
「お願いします、僕と一緒にご主人様を探してください」
【アルとレムの二言講座(ツッコミ役:レアリア)】
「ふぅ、今日もいい汗かいたな。なっ、アル!」
「……」
「それじゃ、一緒に水浴びでもするか」
「……」
「――って、あんたは何自然に服脱がせようとしてるのよ!?」
「いや、服着たまま水浴びしたら濡れるだろ?」
「――アル、このロリコン変態男には近づいたら駄目よ。良いわね?」
「俺は別にやましい事があったりとか、そういう事は全くないんだぞっ!! だから俺はロリコンじゃねえ!!!!」
「――はっ、どうだかっ」
「……(こく、こく)」
【お終い】
むにゅー。
ナイ乳と書いてむにゅー……とかそういう訳ではないので悪しからず。