ど-289. 愚痴を言う
時々愚痴るのは大切な事
「ああ、止め処なく溢れ出てくるこの気持を誰かに伝えたいっ」
「何処かの溝にでも廃棄されては如何ですか?」
「ふっ、お前の言いたい事も分からないでもないけどな。つまり、お前は俺の愛で世界の隅々を、それこそドブの中にまで行き亘らせれば良いんじゃないかって言ってるわけだよな?
「その様な奇怪な事は一切申し上げておりませんが」
「ああ大丈夫、おーけーだ。それ以上言わずともちゃんと分かってる、理解してる、十分すぎるほどにお前の想いは俺に伝わってきているさっ」
「それは大変、よう御座いました」
「と、言う訳だからまずはお前に愛を囁いてみようと思う」
「その様な事は言わずとも欠航に御座います」
「ああ、悪い。そうだよな。いちいちこんな前置きなんて必要ないって事だよな、うん」
「確かにそれも御座いますが、それより何より、子の様な往来で仰られる事ではないかと思うのですが……」
「ふふっ、そんな恥じらう姿も可愛いよ、俺の愛しいヒト?」
「……お労しや旦那様」
「ちょ、それはどういう意味だ。まるで何か俺が一人芝居している、痛い奴みたいなねぇかっ!?」
「――まさか、……いえ、何でも御座いません」
「そっ、そう言う気になる言い掛けは止めようなー?」
「ああ、私の言葉に一喜一憂して、まるで地上で息絶える間際の魚の様にびくびくと震えておられたあの頃の旦那様が懐かしい限りに御座います」
「……あれ、俺ってそこまで酷かったっけ?」
「酷い? 酷いとは何が酷いのでしょうか、旦那様?」
「いや、俺ってそんなに情けない奴だったかなーと。まあ、過去は過去、今の俺は今の俺なわけだけどなっ!」
「ええ、当然の事ながら今の旦那様の方が何倍も酷い状態に御座いますね?」
「それはないだろ?」
「何故でしょうか」
「いや、今の俺の素敵さ加減に比べたら誰であろうと、それこそ昔の俺だって霞んで見えるほどだろ」
「その通りに御座いますね、旦那様。今の旦那様と、かつての旦那様を比較するなど、そのような無意味かつ結果の判り切った行いなどする必要もない事なのでしょうとも」
「だろう?」
「ええ。……ただ、間違いなく旦那様と私が考えているのは真逆の事では御座いましょうけれども」
「ん? それってどういう意味だ?」
「言葉通りの意味に御座いましょう、旦那様?」
「んん? 真逆って事はつまり……」
「――旦那様の、旦那様としての願いを忘れたばかりか取り違えてしまわれている今の旦那様を、何故に旦那様とお呼びする事が出来ましょうか。……それでも、私どもの唯一の旦那様であるという利率が変わる事だけは絶対に御座いませんが」
「俺の、願い?」
「はい。旦那様の願いは――あるいは此処に在る意味とはなんですか?」
「そりゃ当然、世界中のお嬢さんを幸せに――」
「幸せに? それはいつから手段ではなく目的になってしまわれたのですか?」
「手段? お嬢さんを幸せにするのが、あくまで手段……」
「はい。旦那様の願いとはすなわち全世界の女性、つまり世界の半分を支配される事でこの世を手中に収――」
「いやそれは違うだろ」
「……果してそうでしょうか?」
「いや、間違いない。何故かそれだけは違うだろって言う確信があるからな」
「…………残念」
「で、それで?」
「それで、とは」
「お前の言ってた事の続き。俺の本当の願いとかなんとかって奴の事だよ。何か少しだけ気になってきた」
「旦那様はお忘れでしょうか。あの日、私どもと夕陽を背にして丘で誓い合っ」
「いや、だからそれはもう良いから。ほんの少しだけ真面目な話、って言っても俺は常に真面目だけどなっ」
「今のは別段、嘘を申し上げたつもりはないのですが……まあ良いでしょう」
「それで、俺の願いってのは世界中のお嬢さんの幸せじゃなくて、何だってお前は言うつもりなんだ?」
「旦那様、その前に一つ申し上げて置きますが、」
「ん?」
「ご自身で想い描かぬ願いは、他者から聞かされたところで所詮は仮初にもならぬ偽りの願いにしかなりませんよ?」
「……――あぁ、うん。それくらいは分かってる、大丈夫だ、解ってるつもりだ」
「ならば、よろしいのです。それでは今の私の言葉を念頭に置いた上で、旦那様の願い――、……」
「ん、どうかしたか?」
「……旦那様、あちらを」
「あちらって……ぁ」
「……うむ?」
シャトゥ、発見
旦那様の(余計な)一言
「この俺から逃げられると思うなよっ!」