結晶
特に理由は無いけれど、長い間ずっと大切に持っているものがある。
誰にでもそんなものがひとつふたつあるのではないかと思う。親に泣きながらおねだりして買ってもらったぬいぐるみとか、初めてファンになった野球選手のサイン入りボールだとか。ときが経って、身長が伸び、知識が増え、今となっては本当に大切なのかなってちょっとだけ思ってしまうことがあっても、絶対に「捨ててしまおう」なんて考えもしない思い出のお宝が、僕にはあった。
僕は、たったひとつだけのずっと持っていたお宝を失くした。
キラキラと輝く結晶で、友達に見せびらかしながら、いかにこのお宝が魅力的か熱く語っていた小学生の頃が懐かしい。誰がくれたのかはよく覚えていないが、おそらく親戚のおばあさんだった気がする。何しろそれをもらったのは十数年前のことで、気づいた頃にはごく当たり前に、僕にとってのお宝だったのだ。失くしたことに気がついたのは一週間くらい前で、二時間ほど自分の部屋を探していたが見つからず、泣く泣く諦めた。やはり大学生にもなって後生大事に石を持っているのはおかしいと思ったからだろう。僕は別に石とか宝石のマニアではないし、失くなったとしても少しだけ寂しい気持ちになるだけだからと自分に言い聞かせたが、僕のもやもやとした心が晴れることは無かった。
「頭が…クラクラする…」
「おい、岡!ぼーっとしてねえでボール回せ!」
今、僕はサウナの中にいる。嘘、ここは体育館だ。しかし、真夏の体育館というものはサウナと大して変わりない。館内に篭もる容赦なき熱気が、僕の体力と思考力を奪っていた。何でこんなクソ暑い中バスケなんかしないといけないんだ。クーラーのガンガン効いている部屋でゲームしたい。そんな思考状態で、僕は必死に(嘘だが)マークしている相手の真っ赤なバスケットパンツを追いかけていた。
僕、岡加太郎は高校時代バスケ部部員として、大して輝かしい成果も挙げることなく日々の練習に勤しんでいた。ポジションはGだったが、公式の試合にはほとんど出た経験はない。バスケ部に入った理由は、はっきりと覚えているわけではないのだが、バスケットシューズがかっこいいから、だったと思う。そのため、走り込みの練習が大ッ嫌いで体力はほとんどつかず、かろうじて技術が少しばかり身についた程度で引退を迎えることになった。
「全く…動けねーなら休んでろよ、岡」
唐津亮一の無駄に低い声を背に、僕はへなへなとその場に座り込んだ。
「ちょっ、お前ここに座り込んでんじゃねえよもう…」
唐津はその巨大で屈強な肉体を生かし、軽々と僕をコートの外に運び出した。僕と唐津は同じ高校のバスケ部で、相手2人は違う高校でバスケをしていたらしい。らしいというのは、僕がこの2人に会ったのは今日が初めてだからだ。唐津と同じ大学で、バスケサークルが縁で仲良くなったと聞いた。唐津に「楽しいことあるから来いよ」といわれて来てみれば、真夏の体育館という灼熱の牢獄でバスケをさせられる僕は、はたから見れば贔屓目無しに可哀想だ。間違いない。
「しっかし、お前がこんなに体力ないんじゃ、まともに2on2もできないな」
「しょうがないだろ…もともと体力ないし、暑いし…」
「じゃ、15分休憩な。まだ1時間しかやってないんだから頑張れよ。あと、これでポカリでも買って来いよ」
そう言って唐津は、千円札を僕に渡した。
「お釣りは返せよな」
「わかってるよ。唐津は優しいなあ」
僕はニヤニヤしながら、駆け足で自販機へ向かった。
僕は自販機の前で、意外な人物に出会った。
「天使ちゃん、こんなとこで何やってるの?」
「あぅ…だから“てんし”って言うの止めてください!私は“あまつか”ですから!」
天使陽香里、僕と同じ大学、そして同じクラスの子である。本人曰く、派手でない格好を意識しているらしいが、高校の体育ジャージはないと思う。真っ赤なジャージで、派手というか悪い意味で目立ちまくっている。可愛らしい顔立ちで色白なのだから、もう少し服装を考えてほしいと僕は思っているが、当人が気にしていないためほぼ諦めている。
「天使ちゃん、今日はどうして市営体育館に?」
「今日はお散歩ですよ。とってもいい天気ですからね」
「その格好は暑くない?いや、そうじゃなくて何で体育館に用事があるの?」
「ジャージがいちばん動きやすいからいいんですっ!体育館に寄ったのは、これを拾ったからなんです」
天使ちゃんが手に持っていたのは、見覚えのある、キラキラと輝く、失くしたはずのあの結晶だった。
「え…これどこで…」
「体育館の前に落ちてましたよ。キラキラして綺麗ですよね。ん、どうしたんですか、岡さん?」
「…それ、僕が失くしてたものなんだ。何でこんなところに」
「あ、それなら良かったです!あっさり見つかりましたね、落とし主。はい、どうぞ」
天使ちゃんから結晶を受け取ると、天使ちゃんはお散歩の続きです、とか何とか言いながら体育館を後にした。彼女の後ろ姿を見送りながら、僕の頭の中は解決しそうにない疑問でいっぱいになっていた。僕の家とこの体育館は5kmは離れている。そもそも僕がここに来たのは初めてだ。あの結晶がここで見つかるなんてまずありえない。10年近く僕の部屋から持ち出したことすらなかったのに。もう暑さなど全く気にならなくなったはずなのに、汗は止まらなかった。この結晶は別のもの、そう考えたかったが僕の十数年の記憶がその考えを否定し、ありえない現象を容認するしかない状況を突きつけているのだ。僕は冷や汗を拭いながら、今この不安を鎮めてくれるかもしれない暑い暑い館内へと足早に戻った。