#01
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私が署内のデスクで「よちよち歩き渋滞事件」の報告書をまとめていると、胸ポケットのカードフォンが鳴り出した。
「もしもし?」
応答ボタンを押して電話に出ると、すぐに聞きなれた声が自己紹介をしてきた。
「私です。マクレガーです」
もちろん、悪魔上司の電話番号は登録してあり、かかってきた相手が誰だかわかっていたが、私はあえて大袈裟に答えた。
「やー、警部。お疲れさまです。まさか電話をくださるなんて。大きな声で呼んでくだされば、すぐお部屋までおうかがいいたしましたのに」
目の前にある部長室を眺めながら、私はそういった。なぜ、この距離で電話をしてくるのか、正直、よくわからなかった。顔をあわせたくないのだろうか。嫌われるようなことをした覚えはないのだが……。
私が首をかしげていると、マクレガー警部は咳払いを一つし、用件を告げてきた。
「きみ、ちょっと月面第二基地まで行って来てください」
「は?」
我が耳を疑った。ちょっと月面第二基地?
地球から月までは、約39万キロあり、ちょっと、という気軽な気持ちで行けるところではなかった。とはいえ、いまは軌道エレベータや月との定期連絡船もあり、絶対にいけない、というところでもないのだが……。
「なにか事件ですか?」
私が尋ねると、めずらしくマクレガーが唸り声をあげた。
「うーむ。事件といえば事件ですが、そうでないといえば、そうでない案件です」
「どういうことですか?」
「行けばわかります」
いつもの即答に頭がクラクラしたが、ここで眩暈を起こしていても仕方がない。私は書きかけの報告書を保存し、立ち上がった。
「了解いたしました。ステファン・シュナイダー、直ちに月面第二基地に向かいます」
「ああ、シュナイダーさん、ちょっと」
電話を切ろうとすると、マクレガーが呼び止めた。
「なんですか?」
「今回は、ぜひ、あの専門家と一緒に行ってください」
「あの専門家? クリノさんのことですか?」
「そうです。必ず、同行してもらってください」
それだけいうと、マクレガーは電話を切った。
私は常識では解決できない「何か」があることを悟り、その場でゼノンに連絡をとった。
「あー、もしもし、クリノさんですか? 私です。ステファン・シュナイダーです。すいませんが、月面第二基地まで、つきあってもらえませんか?」
すると、すぐにカードフォンからゼノンのうれしそうな声が聞こえてきた。
「月面第二基地か……いいですね。あやしい事件ですか?」
「たぶん、あやしい事件、です……」
そんなことがないことを願うばかりだか、おそらく、そうはいかないだろう。
私はゼノンに聞こえないよう、小さく嘆息した。