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5ショートストーリーズ

5ショートストーリーズ1 その3【カゲロウの喜び】

今年五十五歳になる柳本は、会社の健康診断で肝臓の再検査を求められるが…一瞬の喜びが時には絶望に変わる時も…

 生暖かい、神経を逆撫でする様な風がプラットフォームを駆け抜

けてゆき、誰かが読み捨てたばかりのスポーツ新聞が、命を吹き込

まれたみたいにダンスを踊っている。その度に有名女優離婚の今日

のトップニュースと、昨日のプロ野球の結果を知らせる鮮やかな青

い色が、灰色のプラットフォームに色合いを添えていた。

 通勤ラッシュの時間が過ぎているとはいえ、ホームには電車を待

つ人々の列が出来ていて、その新聞を拾おうとするにはせっかく一

番最初に並んだ列を離れ、人目を気にしながらしゃがみ込まなけれ

ばならない、と思うだけで柳本はその新聞を拾おうとする行動には

移れなかった。


「あれ~? こんなところにスポーツ新聞が落ちてらぁ」

「よせよ、誰が読んだもんか分んないし、第一汚いじゃん」

「そうだな。でも一日一善、オレ、これゴミ箱に捨ててくるよ」

 今年中学に入ったばかりというのが一目で分る、真新しい制服を

着た男の子が、新聞を拾い上げると無造作にソレをゴミ箱に放り投

げた。

 その途端、何ヶ所からが『チェッ』という舌打ちが聞こえ、柳本

も心の中で舌打ちをし、その反面、誰にも拾われなくて良かったと

思った。

「よう、佐藤、オレが一日一善したって事、帰りの学級会で報告し

てくれよな」

「へっ、し~らないっと」

 中学生二人はホームに並んだ列には加わろうとはせず、ふざけな

がらゴミ箱の横で立ち話をしている。そこへ電車がけたたましい騒

音を振り撒きながら、銀色の車体を滑り込ませた。

 勢い良くドアが開き、この駅で降りる人波を避け、さあ乗り込む

ぞという時、さっきの中学生達が柳本の前に割り込む形で立ちはだ

かった。

 柳本は心の中ではこの野郎! と思ったが、それも一瞬の事で人波

に後ろから押される形で電車に乗り込んだ。

 今日は何が何でも座らなければならぬ。その為、電車を三本も見

送ったのだから。


 今年で五十五歳になる柳本は先日、会社の健康診断で肝臓の再検

査を要する、という通知を受けた。妻にも子供達にもまだこの事実

は知らせてはいない。ただでさえ不満が多い妻に余計な心配はさせ

たくない、と言うよりも、妻に報告する事によって本当に肝臓が悪

いのでは? という恐れを自分で認めるのが怖くもあったし、妻に

愚痴をこぼされるのが何よりも苦痛であったからだ。

 五十五歳という年齢に違わず、柳本はローンをいくつも抱えてい

たし、息子の一郎は浪人中だ。娘の陽子は今年短大を出て社会人に

なったのだが、相変わらず帰りが遅い。


 まあ、五十五歳の柳本にしてみればどうって事はない事なのだ。

そう、どうって事は無い。ただ、今の柳本にとっては肝臓の再検査

の結果が異常無しの事。そしてその為には再検査に向かうこの体に

少しでも負担をかけないよう座席に座る事、この事そこが今の柳本

にとっては大変重要に思えるのだ。


 人波に押されるようにして車内へと入り、空いている座席を素早

く確認し、そこへと柳本は駆け寄った。そして腰を下ろそうとした。

と、その瞬間、座席を目掛け、何か物が飛んできた。物は座席の角

に当たり、ドサリ、という音と共に、床にその姿をさらす格好にな

った。

 それは女物のセカンドバッグだった。醜く膨れた黒い皮のセカン

ドバッグ。


 柳本は何も無かったかのようにそ知らぬ顔をして座席に腰掛け、

目を閉じた。やれやれ、どうやら座れた。まあ、三本も電車を見送

ったのだ。当然の結果と言えば当然なのだが。

 電車は単調な振動を繰り返しながら、いくつかの駅を通過し、い

つもは柳本が降りる駅をも通過した。再検査の為の病院はまだまだ

先だ。

 やっぱり座っていくのと立っていくのでは雲泥の差があるな、と

思った途端に可笑しさが込み上げてきて、柳本はくくくっと声を上

げて笑った。そして自分が笑っている事に対してまたもや可笑しさ

が込み上げてきて暫く笑い続けていると、ふと強い視線を感じた。

そしてその視線の先には中年女の険しい顔があった。


 何だこの女は? 知り合いでもないし、俺が足を踏んだ覚えも無

い。ましてや座っている俺がこの女に対していたずら出来る訳が無

いだろう。何を考えているんだ、この女は。

 ふと視線を下に落とすと、女が抱えている黒いセカンドバッグが

柳本の視界に入った。

 そうか、そういうことか。でもね、おばさん、俺は三本も電車を

見送ったからどうやら座れた。アンタはアンタなりに頑張ったけれ

ど座れなかった。それだけの事じゃないか。俺を恨むのはお門違い

ってモンさ。


 柳本はまたもや何も無かった様に目を閉じ、単調な振動に身を任

せ始めた。あと少しで病院のある駅だ。今日の俺はツイてるしきっ

と肝臓の方も大丈夫さ。

 くくくっ、自然と笑いが込み上げてきた。今では女の強い視線が

心地良い位だった。


 駅から病院まではタクシーを使った。いつもはこんな贅沢はした

事の無い柳本だったが、今日は特別だ。何しろ肝臓の再検査だし、

さっきは電車の座席に座れたのだから。


 受付で申し込みを済ませ、散々待たされた後で柳本を呼ぶ声が聞

こえた。ドアを開け、よろしくお願いします、と声をかけ医者の顔

を見た瞬間、柳本はこれからの彼の人生が総て見通せた様な気がし

た。

 女医であるその先生は、ニヤリ、と薄笑いを浮かべると、黒い膨

らんだセカンドバッグからメガネを取り出し、柳本のカルテを眺め

始めた…



 



 


 


この後の柳本の人生は…ということです。

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