明日もとなりにいてほしかった。
「朔ってさ、明日が来なかったらどうする?」
帰り道、結衣がそんなことを聞いてきた。
「なんだよ、急に」
「いいから。どうする?」
「どうするって言われてもな……宿題が終わってなかったら困る」
「もう、そういうことじゃないんだけど」
結衣は呆れたように笑った。
「じゃあ、結衣はどうするんだよ」
「秘密」
そう言って、結衣は少しだけ先を歩いた。
昔から、結衣はたまにこういうことを言う。
意味の分からない質問をして、こっちが考えている間に、ひとりで納得したような顔をする。
俺たちは小さい頃から、ずっと一緒だった。
家が近くて、学校も同じ。放課後は当たり前のように一緒に帰り、くだらないことで言い合いになっても、次の日には何事もなかったように話していた。
明日も会える。
そんなこと、わざわざ考えたこともなかった。
だから、数日後。
「ずっと、こうだったらいいのにね」
帰り道、結衣がぽつりと言ったときも、俺は深く考えなかった。
「何が?」
「こうやって、一緒に帰るの」
「毎日帰ってるだろ」
「うん。そうなんだけど」
結衣は前を向いたまま、小さく笑った。
「……そっか」
それ以上、聞き返すことはしなかった。
その日の帰り、結衣から聞かされたのは、来月、引っ越すという話だった。
「お父さんの仕事の都合なんだって」
「……引っ越し?」
「うん。電車で何時間もかかるところ」
結衣はいつもと変わらない口調だった。
「そっか」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「ごめんね。もっと早く言えばよかったんだけど」
「いや、結衣が謝ることじゃないだろ」
そう答えながら、俺はうつむいた。
何か言いたかった。
でも、引き止める理由なんて、俺にはなかった。
ふと、あの日の質問が頭に浮かんだ。
明日が来なかったら、どうする?
あのときにはもう、結衣は引っ越すことを知っていたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。
それから何日か後、俺たちはいつもの帰り道を歩いていた。
途中にある小さな店の前を通りかかったとき、結衣がふいに足を止めた。
「覚えてる? あそこでアイス食べてたこと」
結衣が指さした先には、昔と変わらない店があった。
「ああ。どっちが早く食べ終わるか競争してたやつ?」
「そうそう。朔、いつもずるいんだもん」
「いや、普通に食べてただけだろ」
「絶対うそ。私が負けると、すっごい得意げな顔してた」
「そりゃ勝ったら嬉しいだろ」
結衣は少しだけ頬を膨らませたあと、笑った。
「今度やったら絶対勝つから」
「はいはい」
いつもの調子で返しながら、俺は店を振り返った。
昔は、ここでアイスを食べることだって、当たり前の毎日の一部だった。
また来ればいい。
そう思っていた。
けれど、『今度』がいつになるのかは、もう分からなかった。
結局、その日は店に寄らずに通り過ぎた。
引っ越しの日が近づくにつれて、いつもの景色が少しずつ違って見えるようになった。
教室も、帰り道も、何気ない会話も。
これまで気にも留めなかったものばかりだった。
「ねえ、朔」
「ん?」
「私がいなくなったら、寂しい?」
結衣は前を向いたまま聞いた。
「……そりゃ、寂しいだろ」
「そっか」
結衣は少しだけ笑った。
「よかった」
「何がだよ」
「秘密」
またそれか。
そう言い返しかけて、やめた。
今は、その意味を聞くのが少し怖かった。
引っ越しの前日。
俺たちは、いつもの帰り道をゆっくり歩いていた。
「小さい頃さ、よく喧嘩してたよね」
「結衣がすぐ怒るからだろ」
「朔が余計なこと言うからでしょ」
「はいはい」
「ほら、そういうところ!」
結衣は怒ったふりをしたあと、すぐに笑った。
「でも、喧嘩しても次の日には普通に話してたよね」
「まあな」
「朔、よく言ってたじゃん。『明日も遊ぼうぜ』って」
「そんなこと言ってたっけ」
「言ってたよ」
結衣は少しだけ歩く速度を落とした。
「私、あれ好きだったんだ」
「……何で?」
「だって、明日も一緒にいられるってことじゃん」
俺は結衣を見た。
「高校生になってからもさ、朔が『明日も一緒に帰ろう』って言ってくれると、嬉しかった」
結衣は笑っていた。
けれど、いつもの帰り道を見つめる横顔は、どこか寂しそうだった。
「ずっと続くと思ってたんだけどな」
風が吹いて、結衣の髪が揺れた。
「変だよね。明日なんて、普通に来るのに」
明日も会えると思っていた。
ずっと、そう思っていた。
「結衣」
「ん?」
「俺、お前のことが好きだ」
口にしてみると、思っていたよりも簡単に言えた。
ずっと言えなかった言葉だった。
結衣は目を見開いた。
しばらく俺を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……遅いよ」
「悪い」
「ほんとだよ」
結衣は笑った。
目元が、少しだけ潤んでいた。
「私も、朔が好き」
もう少し早く伝えていれば。
そんな思いが浮かんだ。
「……これからも、連絡していいか?」
「当たり前じゃん」
「いつか、また会おう」
「うん。絶対ね」
俺たちは小指を結んだ。
子供の頃にも、何度もした約束だった。
けれど、その日はいつもより長く、指を離せなかった。
別れ道に着くまで、俺たちはゆっくり歩いた。
明日になれば、結衣はいなくなる。
分かっていても、まだ実感が湧かなかった。
翌朝。
駅の改札前で、俺たちは向かい合っていた。
「忘れ物ない?」
「ないって。昨日、何回確認したと思ってんだよ」
「筆箱忘れたことあるじゃん」
「あれは小学生の頃だろ!」
「ふふっ」
結衣は楽しそうに笑った。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
そろそろ時間だった。
結衣は改札の向こうを見て、それから俺に視線を戻した。
「……ねえ、朔」
「ん?」
結衣は何かを言いかけた。
けれど、少し迷ったあと、首を横に振った。
「ううん。なんでもない」
「何だよ、それ」
「秘密」
結衣は、あの日と同じように笑った。
俺は聞き返さなかった。
電車の到着を知らせる音が、もう一度響いた。
「じゃあ、行くね」
「ああ」
「……またね、朔」
「またな」
結衣は改札を通った。
何度か振り返って、そのたびに手を振ってくれた。
俺も手を振り返した。
やがて結衣の姿が人混みに紛れ、見えなくなった。
それでも、しばらくその場から動けなかった。
帰り道は、ひどく静かだった。
いつも隣にあった声がない。
何度も歩いた道なのに、知らない場所みたいに感じた。
家に着く前、スマホが震えた。
『ちゃんと帰れた?』
結衣からだった。
『今、帰ってるところ』
そう返すと、すぐに返信が来た。
『そっか。明日も頑張ろうね』
俺は少しだけ笑った。
『おう。また明日』
送信してから、スマホをポケットにしまった。
明日、結衣はいない。
それでも、明日は来る。
*
結衣は、見慣れない部屋の中にいた。
段ボールがいくつも積まれ、まだ片づいていない荷物が床に置かれている。
窓の外には、知らない街の明かりが広がっていた。
スマホを手に取る。
画面には、朔とのやり取りが残っていた。
『おう。また明日』
結衣は、その文字をしばらく見つめていた。
明日になっても、朔とは会えない。
一緒に学校へ行くことも、帰り道でくだらない話をすることもない。
結衣はメッセージの入力欄を開いた。
何かを書いて、消す。
もう一度書いて、また消した。
結局、短い言葉だけを送った。
『うん。また明日』
送信したあと、結衣は窓の外を見た。
知らない街の明かりが、静かに滲んでいた。
「……また、一緒に帰りたいな」
今回は、前2作品とは違うジャンルでチャレンジしてみました。
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